「コーヒーの歴史について解説してみましょう」ここでは珈琲の起源や発祥について書いてあります。

―見渡してみると“コーヒー”という飲み物は私達の生活に深く溶け込んでいます。では、私達はどれくらいコーヒーのことを知っているのでしょうか? コーヒーの実というものがあって、それを焦がして、砕いて、お湯で抽出する――それも1つの答えだと思います。ですが、その答えのなかには数々のエピソードがあり、エピソードを知ることで身近だったコーヒーが特別なもの...というのは大袈裟かもしれませんが、いつものコーヒーがちょっとだけ味わい深くなるはずです。エピソードを語る前に、まずコーヒーの起源や発祥の物語を紐解かなければなりません。

――遥か昔、そんな言葉が追いつかないほどの昔になりますが、コーヒーの歴史の1ページ目を開いていきます。

コーヒーの起源。発祥や始まり。有名なエピソードとは?

【コーヒーの歴史】珈琲の誕生からサードウェーブまで『コーヒー史大全』
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コーヒーの始まり――起源には2つの有名なエピソードがあることをご存知でしょうか?

①カルディ伝説

ヤギ飼いの少年カルディが、山にヤギを連れて行ったときのお話。茂みのなかに実っていた赤い実を食べたヤギが興奮して跳ね回っていたので、カルディもその赤い実を食べたところ、楽しい気分になってヤギと踊った。

(ファウスト・ナイロニ「コーヒー論」1671年)

※カルディとヤギが踊っている姿を見た修行僧が、夜のお祈りの眠気覚ましに赤い実を利用するお話は「眠らない修道院」

②シェーク・オマール伝説

無実の罪(王女に恋をした罪というお話もあります)でイエメンのモカという町を追放されてしまったシェーク・オマールが山中で赤い実を見つける。それを食べたところ疲労が吹き飛んだというお話。※小鳥に導かれて赤い実を発見したという話や、この実をモカに持って行ったところ罪を許されたなど、シェーク・オマール伝説にはいろいろなバージョンがあります。

これらのエピソードは物語であり、史実ではありません。物語が書かれた17世紀半ばの書籍にも「物語・民間伝承である」と明記されています。

では、“本当のコーヒーの起源”とはいったいいつ頃の話なのでしょうか?

コーヒーを記した最古の文献「医学集成」とは?

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コーヒーが登場する一番古い文献は9世紀、もしくは10世紀頃に書かれた「医学集成」という本です。この本はテヘラン(イランの首都)の医学者アル・ラーズィー(ラーゼス)が書き遺したものを弟子達が編集したと言われています。

ですが、これは“コーヒーが登場する最初の文献”であって起源、始まりとは言えません。

“アル・ラーズィーはコーヒー豆をどこで知ったのか?”という疑問点が出てきます。

それには、まず“コーヒー豆の植物としての起源”を知ることから始めましょう。

コーヒーノキが地上に誕生した年代からルーツを探る

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コーヒー豆を実らせる木はコーヒノキという植物です。コーヒーノキの化石は発見されていませんが、近種のアカネ科の化石はアフリカで発見されています。

この化石が発掘された地層などから年代を割り出すと約2300万年前~530万年前頃のものとされ、コーヒーノキ自体は約1440万年前に誕生したのではないかと考えられています。.....小難しい話になってしまいましたが、噛み砕いて話すとコーヒーノキは人類が誕生する、ずっとずーっと前からアフリカに群生していたということです。そして“旧人類が誕生したとされる場所”もアフリカ大陸とされています。

この共通点はなにを示しているのでしょうか?

コーヒーノキを最初に利用したのは...?

現在のアフリカ、及び近郊には125種のコーヒーノキが群生しています。これだけの種類が何千年も前からあったとは考えにくいのですが、アフリカ大陸には古くからコーヒーノキがいくつも群生していたことが伺えます。また、アフリカ大陸に生息する鳥や猿、猫などはコーヒーノキの果実を食用としています。この2つから考えられることは“アフリカで誕生した旧人類もコーヒーノキの果実を食用にしていた”ということです。

つまり、“人類がコーヒーを生活(食用)に用いたのはアフリカ大陸からではないか?”と推察できます。また、旧人類は約20万年前にホモ・サピエンスに進化し、東アフリカに位置するエチオピアを居住区にします。そして約7万年前、新天地を求めユーラシア大陸など様々な場所に移動したのです。この移動の際、“人類はコーヒーノキを新天地に持っていったのでは?”とも考えられますが、コーヒーノキは栽培環境が限定されているので、仮に持っていったとしても育たなかったと思います。

それでは、なぜ9世紀に遠いテヘランに住むアル・ラーズィーがコーヒーを知ることになったのでしょうか?

奴隷貿易とコーヒーの関連性

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エチオピアには「ケブラ・ナガスト」という1270年頃に書かれた歴史書があります。この本によると紀元前10世紀に一人の王子がエチオピアに渡りアクスム王国を建国したと書かれています。建国年自体は伝説の域を出ませんが、今から約2000年前のエチオピアにアクスム王国があったことは立証されています。アクスム王国は貿易都市として栄えるのですが、9世紀頃になると他勢力に押され次第に国力が低下してしまいます。この事態を重く見たアクスム王のデグナ・ジャンはエチオピア西南部エナリアで暮らす先住民族を捕らえ奴隷貿易を開始するのです。これによりアクスム王国は再び栄えたと記されています。

そして、9世紀と言えば先述したアル・ラーズィーの登場です。彼がコーヒーを知っていた有力な理由は二つ。

①アクスム王国がコーヒーを輸出していた可能性

②テヘランに強制連行された奴隷からコーヒーの存在を聞いた可能性

いずれも記録こそありませんが、アル・ラーズィーがコーヒーのこと書いた時期とエチオピアが奴隷貿易を始めた時期は符合します。この二つの事象がまったく無関係ということはないと思います。

それでは、コーヒーの記録が正確に書かれた正当な歴史を紐解いていきましょう。

15世紀から見えてくるコーヒー文化の広がり

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①アフリカ大陸でコーヒーノキが誕生する(仮説)

②その後、エチオピアから世界に伝播される(仮説)

③最古のコーヒーの歴史は10世紀頃に書かれたアル・ラーズィー(の弟子)の「医学集成」(史実)

――ここまでを解説してきましたが、コーヒーの記録が再び文献で確認されるのは③から400年以上先の15世紀になります。舞台はイエメン。コーヒーは「カフワ」という名で広まります。カフワはコーヒーだけではなく“欲望を減退させる飲み物”という括りで、白ワインなどもカフワとされていました。しかし、新しい戒律により白ワインの飲用は禁止されてしまい、“カートという植物の葉で作るお茶”が代用品として飲まれていました。このカートという植物はコーヒーノキと同じで高地でしか育たず、さらに鮮度が重要でした。

当時の交通網を考えると、イエメン各地に新鮮なカートを行き渡らせるのは不可能です。そこで、新鮮なカートを入手できない人たちはアデンの法学者であったムハマンド・ジャマールッディーン・アッ=ザブハーニー(“シーク・ゲマレディン”という名で紹介されている場合もあります)に相談します。

ムハマンドは一時期「アジャム」というコーヒー文化が盛んな土地で過ごした経験から、カートの代用品としてコーヒーを人々に教えます。コーヒーはカートとは違い、長期保存が可能で覚醒作用もあるので、瞬く間にイエメン全土に広まったのです。

次項ではコーヒーが世界に広まった経緯を辿っていきましょう。

コーヒーは市民にも。世界初のカフェが登場

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カートと違い、長期保存の利くコーヒーはイエメンだけではなく、1470年~1495年頃にはマッカやマディーナなどにも伝播します。はじめ、コーヒーを飲用していたのは宗教者だけでしたが、徐々に学生や学者、一般市民にも眠気覚ましとして浸透します。

そして1500年頃にマッカで「カフェ(カフェハネ)」が誕生します。先述しましたが、イスラーム圏では戒律によりアルコールが禁止されていて酒場などはありません。そういった背景がカフェやコーヒー文化をイスラーム圏全土に広める要因となったのです。

当時、大勢力を誇ったオスマン帝国は外貨獲得のために1544年頃、コーヒーの栽培、輸出に力を注ぎます。大量生産されたコーヒー豆は、イスラーム圏最大の市場と言われるバイト・アル・ファキーフという地区で取引され、カイロやイスタンブル、バクダード、レヴァントそして世界中に広まることになります。

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――こうしてみるとコーヒー文化が世界中に発展したのは16世紀頃というのが分かります。この時代はコーヒーにまつわる事件が多く起こりました。

①1511年「マッカ事件」...宗教上の理由でマッカのハイール・べグという人物がコーヒーの飲用を禁止した事件。

②1534年「カフェハネ(カフェ)襲撃事件」...カフェハネで酒を飲んだり、政治批判をする者が増えたため、カイロの為政者たちがカフェハネを襲撃した事件。

③1633年「コーヒー禁止令」...これは17世紀になりますが、イスタンブルで発令された法案です。“コーヒーを飲んだら即死刑”という過激な法律でした。

このようにコーヒーの飲用を取り締まる運動が各地であったものの、それらはすぐに形骸化し、人々はコーヒー文化を後世に伝えたのです。さて、イスラーム圏での話しばかりになってしまいましたが、続いてコーヒー文化がヨーロッパに渡った経緯を解説していきます。

コーヒーはイスラーム圏からヨーロッパに

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イスラーム圏で隆盛を誇ったコーヒー文化は17世紀に海を越えヨーロッパにも伝播します。ここではコーヒーがヨーロッパに伝播された3つのルートを紹介していきます。

①地中海ルート

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当時、ヨーロッパとイスラーム圏を繋ぐ主要なルートは地中海でした。ヨーロッパ人は地中海を渡り、エジプトやレヴァントなどで取引をしています。16世紀、ヨーロッパで書かれた書籍にはコーヒーに関する情報が登場するので、いくつか紹介していきます。まず、1582年にドイツ人の植物学者レオンハルト・ラウヴォルフが「東方旅行の実録」という旅行記のなかで、レヴァントの住人がコーヒーを飲む様子を紹介しています。

これがヨーロッパで初めてコーヒーが紹介された本になります。さらに16世紀末以降ではフランスやイギリスでも地中海経由でコーヒーを手に入れたという記録が残っています。エピソードとしては1644年、フランスの商人であったピエール・ド・ラ・ロックがコーヒーを国内に持ち込んだという記録や、1672年のイギリスで解剖学者ウィリアム・ハーヴェイがコーヒーを飲んでいたことなどが挙げられます。

16世紀までの地中海ルートは大規模なコーヒーの輸入ではなく、少量の輸入だったと考えられています。大量にコーヒー豆を輸入し始めたのは17世紀中盤のマルセイユと言われています。

②東インド会社ルート

16世紀末にイギリスやオランダは海洋進出を強化するため“東インド会社”を設立します。1616年にはオランダの織物商のピーター・ファン・デン・ブルックはモカでコーヒー豆をアムステルダムに持ち帰ったと記録されています。

③パリルート

1669年にオスマン帝国の大使であるソリマン・アガがフランスに駐留します。彼は居住地を豪邸にし、そこに訪れた人々にコーヒーを振る舞ったのです。この行為がパリでコーヒーブームを起こすきっかけとなり、貴族から庶民までコーヒーを求めるようになったと記録されています。

このソリマン・アガという人物について少し詳しく解説すると、彼(オスマン帝国)はオーストリア侵攻のためにフランスに駐留します。これにはフランスと共同戦線を張るという目論見がありました。しかし、ソリマンはルイ14世に無礼を働いてしまい、わずか1年ほどで国外退去することになったのです。結局、彼は本来の目的は果たせず、フランスにコーヒーブームを巻き起こしただけという結果に終わりました。

このように17世紀はフランスでコーヒーブームが到来し、オランダにもコーヒー文化が伝播した時代です。次項ではイギリスで起きたコーヒーブームについて記述していきます。

17世紀イギリスではカフェが空前の大ブームに

イギリスはヨーロッパで一足早くカフェを広めたとされています。記録としては1650年にジェイコブというユダヤ人がオックスフォードでカフェを開いたのを皮切りに、1652年、パスカ・ロゼがロンドンで開いたカフェがコーヒーの大ブームを巻き起こします。

絶頂期(1680年代)には人口50万人ほどのロンドンにカフェが3000軒も立ち並んでいたと記録されています。このブームの裏には当時の社会情勢が起因していると指摘されているのです。17世紀半ばのイギリスは民主主義の始まりを迎えようとしていました。そのため、市民が政治談議をするスペースが求められ、カフェという存在はそんな市民のニーズに応えた存在でした。しかし18世紀に入るとコーヒー豆の価格高騰や紅茶の大量輸入によりイギリスでのコーヒーブームは衰退していったのです。

次項では17世紀~18世紀、ドイツでのコーヒー事情を解説していきます。

ドイツのコーヒー文化は他国とちょっと違う

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フランスやイギリスでコーヒーブームが起きているさなか、ドイツでもコーヒーブームが起きていました。ドイツにコーヒーが浸透し始めたのは1670年頃と記録されているのですが、他国のコーヒーブームとは少々異なっていました。当時のフランスやイギリスでは「コーヒー=男性が飲むもの」という風潮があったのですが、ドイツでは女性が好んで飲むものと記録されています。

その記録を裏付けるのはバッハの「おしゃべりはやめて、お静かに」という曲です。

曲にまでなったドイツのコーヒーブームでしたが、外貨流出を恐れたフリードニヒ2世が1777年にコーヒー禁止令を発布します。これを受け代用品となったのがチコリコーヒーというものです。ドイツのコーヒー代用品の歴史は禁止令が解除されたあとも、そして今、現在でも続いています。

続いてはアメリカ大陸にコーヒーが伝播した歴史を解説していきます。

アメリカにコーヒーが上陸した年は謎?

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コーヒーがアメリカに伝播した正確な記録は残っていません。“1607年にキャプテン・ジョン・スミスがアメリカに初めてコーヒーを伝えた”という話をよく聞きますが、これは、ジョン・スミスがコーヒー豆をアメリカに持ち込んだわけではなく、コーヒーの知識を伝えただけなのです。

アメリカに残っている古いコーヒーの歴史は1670年代。アメリカ北東部、ニューイングランドにコーヒーが伝わり、アメリカ初のカフェが誕生します。18世紀になるとボストン、ニューヨークにもカフェが立ち並び、アメリカ市民の憩いの場所としてコーヒーが広まります。

そして1773年のボストン茶会事件がきっかけで、紅茶の不買運動が起こりアメリカのコーヒー消費量は跳ね上がったのです。

ボストン茶会事件から約20年後のフランスで一人の英雄が活躍します。ご存知「ナポレオン・ボナパルト」です。ナポレオンの“ある政策”がヨーロッパのコーヒー文化に影響を与えたことはご存知でしょうか?

ナポレオンが作った?進化するコーヒー文化

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フランス革命(1787年~1799年)で活躍したナポレオンはヨーロッパ大陸を支配下に置きます。当時、ナポレオンと敵対していたのは産業革命中だったイギリス。

ナポレオンは1806年、イギリスに経済的ダメージを与えるため「大陸封鎖令」を発令します。この政策は“海外との輸出入を全て禁止する政策”なのですが、宿敵イギリスにはそれほどダメージを与えられなかったどころか、ヨーロッパ全体が物資不足に陥ってしまい、市民は困窮してしまうのです。

特に不満が多かったのは「コーヒー」と「砂糖」が不足していたことと言われています。大陸封鎖令から9年でナポレオンはワーテルローの戦いで破れ失脚、1821年にその生涯を閉じます。ナポレオンの死後、大陸封鎖令が解除されたヨーロッパでは、コーヒーを待ち望んでいた人も多く、第一次コーヒーブームがやってきます。

当時、ヨーロッパはウィーン体制という平穏な国際秩序の真っ只中で、家族団欒や友人達とカフェでくつろぐといったビダーマイヤースタイルがコーヒーブームの一助を担ったと言われています。

また、この頃、カフェではなく自宅でコーヒーを淹れる人も多くなり、オノレ・ド・バルザックやルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンらもコーヒー豆の産地や抽出方法にこだわりを持っていたと記録されています。そして抽出器具は発展したのもこの時代です。

ドリップ式の原型とされる「ドゥ・ベロアのポット」やフラスコと気圧を用いてコーヒーを抽出する「コーヒーサイフォン」も1835年にフランスで特許の申請がされています。

ナポレオンがコーヒー文化の進化に携わったわけではありませんが、彼が施行した大陸封鎖令により抑圧されてきた市民のコーヒー熱は、19世紀のヨーロッパで大きく飛躍します。そう考えると、ナポレオンもあながちコーヒー文化とは無関係とは言えないのではないでしょうか。

ちなみにナポレオンは大のコーヒー好きとして知られ、病床でも「コーヒーが飲みたい」と何度も側近にこぼしていたという記録が残っています。

ウィーン体制により安息の日々を送っていたヨーロッパも「1848年革命」で再び不穏な情勢へと転化していきます。これに伴ない第一次コーヒーブームも下火になるのですが、すぐさま第一次とは比べられないほどの大きい「第二次コーヒーブーム」が到来します。ヨーロッパだけではなく世界をも巻き込んだ第二次コーヒーブームとはどのようなものなのでしょうか?

新たな階級の誕生や文明の進化に影響されるコーヒー史

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第一次コーヒーブームでコーヒーを楽しんでいたのは中産階級や貴族階級の人々でした。ですが、1830年以降のヨーロッパは産業革命が発展した時代。ここで誕生したのは労働者階級という存在です。労働者階級の人々は疲れや眠気を紛らわすため大量のコーヒーを求めます。

一方、1870年頃のアメリカでも工業化が進み、労働者階級はどんどん増加していきます。それに伴ないコーヒーを求める人はヨーロッパだけではなく世界全体に広がるのです。これが第二次コーヒーブームの始まりです。

また、第二次コーヒーブームが到来する少し前にアメリカで焙煎技術が向上したことも、ブームを後押ししたのではないかと考えられています。例を挙げると1846年、ボストンで開発された「引き出し式焙煎機」や1864年の「バーンズ焙煎機」などコーヒー豆を大量焙煎の出来る機器が開発されました。

さらにジャマイカでは1845年に「水洗い式精製」という技術が確立されました。これは収穫した果実からコーヒー豆を取り出す作業の速度を著しく向上させたものです。また、19世紀後半に登場した「鉄道」という輸送網もコーヒーを港まで大量に運ぶことを可能にしました。これにより世界中にコーヒーが行き渡り、値段も下がったことでコーヒーは“一部の国の嗜好品”から“世界の普及品”へと変化していきました。コーヒー豆が大量に作られ普及品になるということは、コーヒー豆の価格下落にも繋がります。この価格下落により、のりに乗っていたコーヒー業界は最大のピンチを迎えることになったのです。次項では19世紀後半から20世紀に掛けてのコーヒーの歴史を振り返ってみましょう。

~この時代、日本でのコーヒー文化~

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19世紀中盤、やっと日本にコーヒーが上陸します(特例として1776年、1804年に個人がコーヒーを飲んだという記録があります)。日本がコーヒーの輸入を正式に始めたのは1858年になります。

当時は市民向けではなく、居留地の外国人向けに取引されていましたが、1870年代からは日本人もコーヒーを飲み始め、1888年には日本初の喫茶店と呼ばれる「可否茶館(かひさかん)」がオープンします。また、1901年にシカゴ在住の日本人科学者カトウ・サトリがアメリカ初のインスタントコーヒーの特許を取得しています(世界初の特許はニュージーランド-1889年)。

コーヒーの知られざる歴史。日本にコーヒーが広まった理由とは?

ブラジルでのコーヒー大暴落

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19世紀、コーヒーブームの到来によりハイチやブラジル、コスタリカといった国々がコーヒーの生産に尽力を注ぎます。その結果、コーヒー豆が需要を越えてしまい、生産過多になってしまうのです。19世紀後半にはコーヒー豆の価格は大暴落してしまい、世界のコーヒー豆の80%を担っていたブラジルの農園は窮地に立たされます。この事態を重く見たブラジル政府は1906年に「ヴァロリゼーション」という処置をとります。

この政策は政府が農園からコーヒー豆を一時的に買い上げ、輸出量を調整するというものなのですが、農園のあまりにも多いコーヒー豆を買い上げることができずに破綻してしまうのです。そこで、ブラジル政府が最後に助けを求めたのは“あるドイツ人”でした。

アメリカ最後のコーヒー王

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ブラジルのコーヒー農園を救うため、ヴァロリゼーションを施行したブラジル政府でしたが、政策は資金不足により頓挫してしまいます。そこで、ブラジル政府が助けを求めたのはドイツ人の「ハーマン・ジールケン」という人物です。

彼はやり手のビジネスマンだったのですが、悪い評判も多い人物でした。

ブラジル政府から相談を受けたジールケンは資金力や人脈を駆使して銀行から巨額の融資を受けます。

その融資金を使いブラジル政府と共同出資という形でコーヒー豆を安価で買い占めたのです。

ジールケンはブラジル政府が所有したコーヒー豆も“担保”という名目で全て預かり、ニューヨークやハンブルクの倉庫に保管します。そして、コーヒー豆の流通量を巧みに操作して、アメリカを始めとしたコーヒー消費国の市場価格を三倍近くまで吊り上げたのです。

その結果、ジールケンは莫大の利益を上げ「アメリカ最後のコーヒー王」の異名を取りました。ジールケンはその後ビジネスで一度も失敗することもなく、1917年に70歳の生涯を終えます。ジールケンによるコーヒー豆の独占や価格操作によって高騰したコーヒー豆でしたが、あることがきっかけで大暴落してしまいます。次項ではその原因を解説していきます。

~この時代、日本でのコーヒー文化~

日本初の喫茶店「可否茶館」は時代を先取りし過ぎたためか、わずか4年(1892年)で廃業してしまいます。1908年になると作家の木下杢太郎や北原白秋が「日本に西洋情緒を取り入れたい」と話し、この考えに啓発された洋画家の松山省三が1911年3月、銀座に「カフェープランタン」を開業します。

また、8月にはカフェーライオンがオープン、12月にはカフェーパリウスタと続々と日本にカフェが誕生しました。

アメリカのコーヒーアジテーション「狂騒の20年代」

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1914年に勃発した第一次世界大戦もコーヒーの歴史に無関係ではありません。

戦争の影響によりヨーロッパでの輸出入が停滞してしまうのです。

特にコーヒーの輸入を担っていたハンブルク、アムステルダム、ルアーヴル、アントワープの港は戦地のど真ん中ということもあり、輸出国は自国の船を出しませんでした。

これにより、一番損害を受けたのは主に高級豆をドイツに輸出していた中米です。

高級なコーヒー豆の価格を下げるほかありませんでした。この事態に上手く便乗したのはアメリカ。

それまでアメリカのコーヒー業者はブラジル産の安いコーヒー豆ばかり買い入れていましたが、中米の高級豆が安価になったのを機にこれを大量に買い入れたのです。

品質の良いコーヒーを安価で飲めるようになったことや戦争が終わった(1920年)ことも後押しして、アメリカでコーヒーブームが到来します。当時、アメリカでは禁酒法が施行され、国民はアルコールの代用品としてコーヒーを飲むようになりました。

さらに、コーヒーの飲用を推進するコマーシャルや映画を製作し消費を促したのです。

アメリカではこのコーヒーブームを「狂騒の20年代」と呼んでいます。このブームに乗りたいブラジルは過去、ジルーケンが行ったようにコーヒー豆を独占して価格操作を行うのですが、1929年「暗黒の木曜日」

――いわゆる世界大恐慌が起きてしまいます。恐慌によりコーヒーの消費は激減し、コーヒー会社も次々と倒産してしまいます。そして、コーヒー豆は2度目の大暴落の一途を辿ることになります。ブラジルは大量に抱えてしまったコーヒー豆の在庫をなんとか消費しようと、スイスのネスレ社に長期保存可能なインスタントコーヒーの開発を依頼します。これが「ネスカフェ」の起源です。しかし、ブラジルは有り余るコーヒー豆の在庫を完全に消費することはできず、1931年から数年の間でコーヒー豆を468万トンも焼却処分しています。

戦争は市場に大きな影響を与えます。第二次世界大戦も例外ではなく、コーヒー市場に大きな影響を与えました。次項では第二次世界大戦とコーヒーの関係性を紐解いていきます。

~この時代、日本でのコーヒー文化~

1930年頃の日本ではカフェー(カフェ)が全盛期を迎えていました。

当時の日本のカフェーは“女給と酒がメイン”といった水商売の色が強かったこともあり、風紀を乱すという理由で1929年に「カフェー・バー等取締要項」が敷かれます。これにより、1930年代前半には“女給を置かない”“酒を飲まさない”“純粋にコーヒーを楽しむ”スタイルの「純喫茶」が数多く出店しました。純喫茶の台頭により日本でもコーヒー豆の産地に一層こだわりを持つようになり、1937年にはブルーマウンテンといった高級豆の輸入も始めました。