そう、横浜流星とは頻繁に裸足になる俳優なのである。たとえば、履き物をぬぐという類似性でいえば、主演映画『きみの瞳が問いかけている』(2020年)で、足がくさいのを気にした篠崎塁(横浜流星)がわざわざ靴をぬいで水で洗う足の裏がアップで写されていた。

◆素足が強調される意味

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 塁はそのあと履き古した靴を新調する。すっきり清潔になった足元が再度アップで写される。横浜が演じる主人公たちのこうした着脱にもう少し注目してみる。広瀬すずとの共演映画『流浪の月』(2022年)でも冒頭から着脱の過程が印象的である。

 会社から汗だくで帰宅した中瀬亮(横浜流星)が早々にスボンをおろす。雄々しい脚をスクリーン上にあらわにする(ラブコメ映画『L♡DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。』では上白石萌音が演じるヒロインにズボンをおろされる場面があった)。

 寝室のベッドで亮がスマートフォンをいじるときもまた画面中景で横浜のふくらはぎに不思議と視線が誘導される。あらゆる作品でなぜ横浜流星は裸足になるのか。その素足が強調されることにはどんな意味があるのだろうか?

◆フィジカルな脚力勝負の時代劇

 雄々しくて美しい脚だなぁとのんきに観察するだけでも楽しい。そしてそれを足元まで色っぽい人なんだなぁと単純に感心して存在感の話題として語ることはできる。

 でもそれ以上に、横浜は、足(脚)そのものを演技の根幹とする俳優なのではないかと考えられないだろうか。少なくとも大河ドラマのような時代劇における演技は、俳優のフィジカルな脚力勝負のところがあるからである。

『べらぼう』で横浜が演じるのは、町人役である。江戸の町人役は、江戸っ子気質で軽妙でなりながら、腰を落とした姿勢によって時代劇らしい重量感も伝えなければならない。その腰元を物理的な意味で支えるのが、足元、つまり脚力の演技である。