――ネット記事では、悠仁親王の第1希望は東京大学・農学部であるという説が根強く語られてきました。東大にも推薦入試枠が存在するため、その限られた枠を秋篠宮家が利用するのではないか、ともみられてきたのですが、悠仁親王のご進学先が筑波大学だったことで、一時の緊迫ムードはかなり緩和しましたね。とはいえ、筑波大の推薦入試も、内部進学や指定校なら「楽勝」という試験ではなく、上位3割しか合格できないかなり狭き門であったようですが……。
堀江 ネット記事によると、筑波大のキャンパスは茨城県・つくば市なので、長時間の通学で問題が見込まれるだけでなく、なかなかご公務もできないのでは、あるいは人生の先輩であるほかの宮さま方の立ち居振る舞いから学んでいくという「帝王教育」も遅れてしまうのではないか、など批判的な論調ばかりが目立つ気がします。
――明治初期をのぞいて、皇族の方々に「進学の自由」のようなものはなかったのでしょうか?
堀江 そうですね……、昭和初期の話なのですが、東大法学部への入学を公言した「宮さま」の受験トラブルが思い出されますね。戦前日本では男性皇族は、成人後に職業軍人になることが義務付けられていたといいましたけれど、そのルートを何らかの理由で辿らない方もいらっしゃったわけです。
昭和10年(1935年)、当時すでに狭き門として知られた東大法学部合格を目指した久邇宮邦彦王の第3王子、邦英王という方がいらっしゃいます。
正確には東大受験の前の時期にはすでに邦英王は皇籍離脱し、東伏見伯爵を名乗るようになっておられたので、華族ではあるが、皇族ではないとみることはできます。しかし、当時の記録を見ると、「臣籍降下」した元・皇族も基本的に皇族として扱われていたことがわかるので、今回もその例にならって伯爵のことは邦英王とお呼びすることにします。
邦英王は学習院中等科在学時代から、東京大法学部を志望していると公言していました。当時、大学への進学はかなり限定されていましたが、それでも東大法学部は大人気で、受験者数に対し、合格者数が大幅に低い難関だったのです。