堀江 とはいえ、いくら身分が高くても、いきなり海外の高等教育機関に留学できるほど語学力が備わっている人はいません。
たとえば明治5年(1872年)、伏見宮貞愛(ふしみのみや・さだなる)親王は東京の大学南校(東京大学の前身)にご入学、同校でフランス語の勉強を始めた記録がありますね。貞愛親王はその後、陸軍大学校に進学し、英語やドイツ語なども習得なさいました。さらにベルリン大にも聴講生として、半年ほどお通いになりました。
このように、戦前の男性皇族は「エリート軍人」となることが義務で、国内外で受ける教育もすべてそのためだったのです。
しかし、天皇家がすべて留学費用を負担してくれていた戦前の皇族に対し、家柄は高くても経済的な悩みがある華族は少なくなく、明治10年に学習院が創立されるまでは慶應義塾に通うことが多かったようです。明治初期から明治10年以前でも、60余名に上る華族のお坊ちゃまたちが慶應義塾に通っていました。
――普通の生徒たちから浮いたりしなかったのですか?
堀江 当時の慶應義塾は寮生が中心なのに、華族学生は東京の一等地にある広大な自宅からの通学、それも大勢の従者を引き連れているため、一般学生との間には反目があったそうです。
だからこそ、華族・皇族のための教育機関の設立が急務とされ、明治天皇の後押しもあって、明治10年に東京・学習院は誕生したわけですね。逆にいうと、皇族・華族といった超特権階級の子弟が、一般人――とはいってもかなりの上流階級の子どもたちなのですが、彼らとの間に余計な「摩擦」を発生させぬように作られたのが学習院だったということです。
これは一種のゾーニング(棲み分け)で、「私たちは君たちの生活を脅かさない」という超特権階級から一般社会への「配慮」だったともいえるでしょう。秋篠宮家の悠仁親王のご進学問題については、まさにこの手の明治期から現代まで続くゾーニングを踏み越えるものであったため、批判に晒されたということですね。