今ならば断言できる。物語を生み出す仕事をしていることを誇りに思える、と断言することができるのだ。

 私が物語を書くとき、当たり前だが、自信のないものは書かない。同時に作品作りにおいて、誰の真似もしようとは思わない。物語は唯一無二であって、自分の言葉で紡いでいかないと意味がないと思っている。だって何かの誰かの物真似なんて安っぽくないか。拘り続けたいのは常に新しい世界観だ。だからこそ、作品を話題にしてもらえたときには、報われたと噛み締めることができるのではないだろうか。

『インフォーマ』を通してわかってほしかったこと

 そして、私に求められる役割は、決して書くだけでは終わらない。後悔しないように最後の最後まで、あらゆる挑戦を試みる。多分そこに妥協はないと思う。やると決めたことをいつだって最後までやり切るだけだ。その姿をみんなが応援してくれるのだ。当たり前の話だが、頑張ってる姿を応援してもらえるほどありがたいことはない。

 仕事上、週刊誌の仕事をしている人々を、出版社を問わず私はたくさん知っている。私自身、週刊誌で仕事もさせてもらっている。だから、週刊誌の内部事情や記者たちのモチベーションなどは手に取るようにわかっている。その観点から考えても、彼らが有名人のスキャンダルを報じ、タレント生命を奪うことまですることに正義なんてものはないと思っている。

 だが、『インフォーマ』を通してわかってほしい側面もあった。彼らも彼らで、葛藤や苦悩の中で仕事をしているということを、私は物語として残しておきたかった。

 すまんがネット民は別だ。人のことを暴露して、それでインフルエンサーとしてヒロイズムを感じている人間を、私は本当にすまない。バカだと思っている。それは節操のない一部のマスメディアの記者も同じである。

 それで世の中がよくなるとでも思っているのか。なるわけないではないか。世の中には常識というものがあって、過去のスキャンダラスを悪戯に掘り起こし、ネット民に火をつける手法は、悪手でしかないのだ。なぜならば簡単である。そこに当たり前のジャーナリズムがないからだ。