ところが、実際に描かれたマキちゃんは全然ギャルをやりたそうな子に見えなかった。快活で明るい性格の女の子ではありましたが、彼女のギャル的な要素は「ギャル雑誌を読んでいた」ことと「安室奈美恵のCDを持っていた」ことだけ。特段「好きを貫いている」ようなエピソードもなかったし、後に登場する「ギャルの掟」につながるような物語の主となる思想を披露したことも一度もない。誰かがギャル的な発言やギャル的な行動をしたとき、視聴者の頭の中にマキちゃんの顔が浮かぶことなど一切なかったはずです。
マキちゃんがギャルではなかったし、その思想の片鱗すら見せていなかったことで、このドラマにおける「ギャル魂」は、まず「アユによる身勝手な拡大解釈(=ハギャレンのギャルの掟)」として登場することになります。
そしてそのアユが大人になって「私はニセモノ」「ハギャレンなんて恥ずいから解散しろ」と言い出したことで、その思想は完全に実体を失ってしまう。神戸に来る前に、もう「ギャル魂」そのものが形骸化してしまっている。それが、どの場面でも「ギャル魂」という言葉が上滑りし続ける原因になっています。
マキちゃんという人物の造形の甘さが、つくづく悔やまれるところです。
そんな話ではなかった
そんな話ではありませんでした。ナベさんについてです。
ナベさん、同級生の墓参りを拒否するというエキセントリックな人物として登場するわけですが、この人の生活感のなさが「被災者の復興」を描く上でのリアリティのなさにつながっていたと感じます。
綿密な取材でお馴染みの『おむすび』のこと、たくさんの被災者に取材をしたことは想像に難くありません。
何を聞いてたんだよ、と思っちゃうわけですよ。震災から12年、ナベさんが「どう生きたか」がまるで描かれていない。ただひとりの大人が被災して、娘が死んで「壊れた」、その「壊れ方」だけしか描かれていないわけです。
「死んだように生きてきた」と言いたいのはわかります。しかし、ナベさんには「生きてきた」がないんです。仕事をしていないからです。ナベさんに生活がないから、その痛みが伝わってこない。痛みというのは、当たり前ですが、生きている人にしか感じられないのです。