律令制がまだ機能していた天平12年(740年)、ときの帝・聖武天皇の従兄弟にあたる藤原広嗣が、大宰府で反乱を起こした際(藤原広嗣の乱)、大宰府から当時の都・平城京(現在の奈良県)まで使者は4~5日で到着できているのです。つまり、寛仁3年(1019年)の「刀伊の入寇」の事件の時の約2倍のスピードで情報伝達ができていたわけですね。
律令制度の崩壊とは、日本の支配が「公」の論理=国の方針から、「私」の論理=地方の有力者の都合に変化しつつあったという時代と社会の変化でもあるわけです。
同じことは「軍隊」でも起きていました。
ドラマでは「刀伊の入寇」にまつわる戦のシーンがあり、前回は道長が「朝廷が武力を振るってはならない!」と命じるシーンもありました。当時の兵制についてもお話しておきますと、北は東北、南は九州までを平定することが完了した平安時代中期以降も、太政官(≒政府)直属の「八省(=役所)」の中に、軍事関係を統括していた「兵部省」は残りましたが、有名無実化していくわけです。
役所としての「兵部省」は存続しているのですが、鷹狩に使う鷹を養育したり、牧場を経営したり、軍事とは直接関係のないことが業務の中心となっていきます。かつては兵部省の長官には多くの場合、皇族が選ばれていたのですが(『源氏物語』にも兵部卿の宮という登場人物が何人か登場していますね)、それさえ平安時代後期、三条天皇(ドラマでは木村達成さん)の皇子・敦平親王を最後にしばらく断絶しています。
つまり、平安時代の末の日本では正規軍が解体され、私兵団だけが存在する世界になっていたのです。ドラマにも出てきたような兵の鍛錬などは、主に地方にいる軍事貴族たちの裁量にお任せだったのですね。そういう私兵団を結成した者たちの間でいわゆる下剋上が相次ぎ、さらに力のある武士をリーダーとした武士団が形成され、日本は乱世に突入していくのでした。