次回は最終回ですよ。それなのに、このまとまりに欠くありさま。『光る君へ』で本当に光っていたのは出家後の道長の頭だけだった、という印象で終わってしまいそうで、「もののあはれ」を催した筆者です。

 さて、気を取り直して史実的な補足に移りましょう。

 今回は、女真族の海賊から侵攻を受けている大宰府から急ぎの使者を飛ばしたはずなのに、都に情報が到着したのは10日後だったという部分などについてお話してみようと思います。

 大宰府(現在の福岡県太宰府市)から都(京都市)まで、「早馬でもこんなに時間がかかったものなのか」と多くの方はお感じになったかもしれません。

 しかし、これは「平安時代はそういうもの」ということでもなさそうです。京都の朝廷とその法律である「律令」によって、日本全国を支配できていた律令制が崩壊しつつあることを示した一例ではないかと思われるからです。

 紫式部や藤原道長は西暦にして10世紀後半から11世紀前半を生きた人物なのですが、この時代には京都の朝廷の影響力は地方で低下しつつありました。その一例が、律令制によって定められた「飛駅制」の機能低下なんですね。

 大宝元年(701年)、文武天皇の命によって「大宝律令」が完成し、本格的な律令制度がスタートしました。日本中に「七道」――東海道や山陰道といった現在にもその名を残す街道が張り巡らされ、「大宝律令」の「厩牧令(くもくりょう)」によって「大路30里(約16キロメートル)」ごとに「駅」が置かれることになりました。駅には複数の馬がスタンバイされ、都に急いで伝えるべき情報を「飛駅使(ひえきし)」と呼ばれた使者が、街道上の駅で馬を乗り換えながら、駆けていくことができる制度が「駅伝制」だったのです。

 最近の研究では、こうした古代の駅は朱塗りの柱に白壁の豪華な建物になっている場合もあり、地元の有力者が宴を開く場所だったともいいますね。興味深いことに「駅伝制」は国家が定めた公の制度なのに、駅の運営は国ではなく、駅施設の自助努力によって成り立っていたとする説もあります。常時、複数の馬をスタンバイさせておくにはたいへんな経費がかかったでしょう。しかし、こういう国の経済的負担を軽くするためのアイデアも、律令制度が崩壊しはじめると裏目に出るようになりました。