しかし、今作はその“普通”から一歩踏み出してはどうだろうか、と問いかけてくる。“親切にする”には、ただ悪いことをせずに生きるだけでなく、わざわざ行動を起こさなければならない。
極限状態にも差す“親切”の光
普通に生きていて突然「普通じゃダメだ、善行を為せ」などと言われたとき、「自分や家族の人生で必死なんだ、なぜそんな説教をしてくるんだ」と眉をひそめてしまうのも“普通”の反応ではないかと思う。“親切”にはエネルギーが必要で、他人に割くエネルギーは意識しなければ確保しにくいものだから。しかし、今作のおばあちゃん(サラ)の話を聞いても「他人に親切にする必要などない」と言えるだろうか。
いつ自分が命を狙われるかわからないという極限状態においてさえ、赤の他人に120%の善意を注ぐ人間がいる。その無償の行いによって、幸せを感じられる人、ひいては命を救われる人もいる。その善意がなければこの世に存在しなかった人間がいて、その子、孫もいる。どこかで“親切”がなければ、自分や家族、友人がここにいなかったかもしれない。今作で語られるエピソードはそんなことを想像させてくれる。
もっとも筆者も「もっと不幸な人がいる」と言われたからといって自分の幸せをそこまで切り崩せないし、切り崩す必要はないと思ってしまうタイプ、「飢餓に苦しんでいる人がいる」と言われてもたまに“自分へのご褒美”と贅沢な食事を楽しむことはやめられないタイプの人間なので、「極限状態でも他人のために行動できる人間がいる」と言われてすぐに他人にすべてを捧げようなどとは思えない。しかしそれでも、「なるべく目の前の不幸を見逃さないようにしよう」「小さな親切ならできるかな」などとは改めて思わされる。
それでいいのではないか。誰もが必死で生きているこの時代、他人のためにすベてを投げ出せる人間など一握りだ。それでも、今作を見て少しでも“親切”の尊さを実感した人、小さなことをしてみようと思った人が何千何万人といれば、それだけで世界は少しでも明るくなるかもしれない。そう思えるのだ。