◆人は視覚情報や表情・仕草での歌詞表現も“聴いて”いる
そうは言っても、先程も述べたように、Adoの実力に疑問があるわけではありません。しかしながら、それを吟味(ぎんみ)するための手がかりが姿を見せないことによって封じられてしまっている。それが惜しいし、もっと言えば音楽の本質に関わる問題だと思うのです。
人は歌手の歌を耳で聴いているようでいて、実はその他の感覚も使って総合的に味わっています。
たとえば、同じ高い音を出すのであっても、何事もなかったように涼しい顔で歌うのか、それともこめかみに血管を浮き立たせて汗だくで歌うのかでは、全く意味合いが異なります。そうした視覚情報もあわせて、歌や曲の持つ意味をなじませていくのですね。
歌詞の表現も同じです。悲しいことを歌うにも、表情や仕草は人それぞれ。発声方法やボーカルのテクニックよりも、人となりがわかる部分にこそ曲の解釈が如実にあらわれるものです。
音楽を聴くとは言うものの、多かれ少なかれそこに人を見ている。ただ技術や理論を確認するためでなく、各人の性格が息づく様子を“聴いて”いるのです。
【こちらの記事も読まれています】