◆「存在感がすごい」とは?
まぁでも筆者も結局は14光りの話題からわざわざ始めてしまっているのだから、これまた上げ記事のバリエーションに数えられちゃうのかなぁ。と、不安をもらしつつ、今一度、石橋静河の魅力をちゃんと主張しておくのは無駄ではない。
そもそもある俳優の演技を評価するとき、「自然体」と形容するのは論外だとして、「存在感がすごい」みたいな言い方にはもっと違和感がある。石橋の演技を評価する声の大半は後者である。
確かに石橋静河の存在感はすごい。でもそれまた自明のことで、じゃあどうすごいんだよ。と聞いたら、ほとんどの人は絶対に口ごもる。俳優は演技をして画面上に存在する。その画面に感じる存在感がすごいとは、なんだかよくわからないんだけれど、ある役柄を演じる石橋が今確かにそこにいて、やたらと生々しいなにか。で、そのなにかというのは、「存在感」などと一言で簡単に集約できるものではない。
つまり、本来言語化が難しいにもかかわらず、それを単に「存在感がすごい」と形容してしまっては、形容して評価したはずの石橋の存在感がどうも薄れてしまうという問題がある。
◆石橋静河と出会ってしまった感覚
10月28日に授賞式が行われた「東京ドラマアウォード 2024」で、石橋が主演女優賞を受賞した『燕は戻ってこない』は、まさにそうした一言ではとても片付けられないほど生々しい存在の質感が感じられた作品である。
主人公・大石理紀(石橋静河)は「変われると思ってた、あの町を出れば」と心の中でつぶやきながら地元・北海道の北見から上京した。でも職を転々とする他なく、手取り14万円でコンビニのおにぎりを買うのも勇気がいる。そんな毎日を変えるため、エッグドナー登録をして代理母になるまでの間、石橋は複雑な感情を(うまく抑制しながら)込めて終始微笑を浮かべて演じている。この微笑がなんとも生々しい。