結ちゃんが両親に「栄養士になりたい」と決意を告げるシーンで、その動機としてこう語ります。
「自分がやったことで誰かが喜んでくれたら、すごい幸せな気持ちになるんやって気づいた。一生懸命やっとう人を支える。そういう仕事が自分に向いとると思う」
だから栄養士っていうのも説得力が全然ないけど、あえて親に「好きになった男がきっかけで」とか言う必要もないので、それはいいんです。
この結ちゃんの言葉に重ねて、カットバックがあるんですね。フェスでパラパラを踊って、みんなが笑顔になる場面。第1話で小学生の帽子を拾うために海に飛び込んで、その小学生にトマトを食わせた場面。カッパのために弁当を作って、それを渡したときのカッパの笑顔。そうした糸島での思い出の最後に、アレが出てくるんです。
阪神・淡路大震災当時の避難所、おむすびを届けてくれたおばさん。そのおむすびを頬張る、幼少期の結ちゃん。
シーンの意味としては、あのおむすびを食べたときに「すごい幸せな気持ちになった」と言おうとしていることはわかります。でも、それはウソじゃんね。当時の結ちゃんにそんな意識はなかったし、避難所にいる意味も状況もわかってなかったし、おむすびが冷たいことに不満を感じて「チンして」とか言ってたし、すごい幸せな気分になってないよね?
「避難所におむすびを届けてくれた人」に着想を得て「主人公が栄養士になる」というドラマを作ろうとした。しかし、脚本は主人公が栄養士を目指すきっかけと、あの「避難所のおむすび」をつなげることができなかった。誰がどう見ても、それは関係なくなっちゃった。
関係なくなっちゃったことは明らかなのに、結ちゃんが「栄養士を目指す理由」を告白するシーンで「避難所のおむすび」の場面を挟み込み、あたかもそれが動機の一部であったかのように装っている。関係があったという、偽りの印象付けが行われている。
こういう手法を、サブリミナル・メッセージといいます。本来、映像におけるサブリミナル効果は人間の識閾下(1/3000秒とか)を狙って挟み込まれるものですが、やっていることの意味は同じです。都合のいいように、コンセプトとつじつまが合うように、映像によって錯誤を促してる。