実際、こういうやりとりが道長と為時の間にあったかは不明ですが、史実の為時は、文学好きの朝廷高官の邸宅に呼ばれることがよくありました。道長は漢詩の会をよく主催していましたから、為時を招いてしばしば交流していたようです。

 また、為時は当代きっての文化人として知られた具平(ともひら)親王(村上天皇の第七王子)という皇族の邸宅にも出入りしていました。具平親王は「六条宮」とも呼ばれ、これは京都の六条に親王の邸宅があったことにちなんだ呼び名なのですが、次回からまひろが執筆を始めるらしい『源氏物語』の主人公・光源氏の本邸も「六条院」ということもあり、親王こそが紫式部の創作に大きな影響を実は与えた人物ではないか……ともいわれています。ややマイナー説になりますが、紫式部は具平親王の邸宅に幼女時代から出入りしており、よく言われるように道長ではなく親王が光源氏のモデルだという説もあるくらいですね。

 前回(第28回)は、道長が倫子(黒木華さん)や明子(瀧内公美さん)との間に授かった多くの子どもたちがドラマに登場していましたけれど、道長の子どもたちのうち3人が、具平親王の子どもと結婚しているという事実があるので、『光る君へ』には未登場ですが、史実の親王は平安時代中期の政治、そして文化の両面で無視できない存在だったといえます。

 史実の為時にはそういう大貴族や皇族が主催する文学サロンのゲスト、あるいは講師としての臨時収入だけでなく、平安時代の朝廷の役人には官位に従い、具体的な官職についていなくても、それなりの収入が現代でいう「ベーシックインカム」的に保証されていたので、本当の意味で「無職」になったわけではありません。