それはそうだろう。誰だって文字を書くことができるのだ。女子高生のワードセンスなんてえぐいぞ。若い子たちがつくる歌詞なんか読んでいても、私には到底発想できない表現に感心させることも多い。だけど私は負けない。長丁場の戦い、10万文字の戦いになれば、誰にも負けないと思っている。それは経験値の違いから来ているところが大いにあるだろう。
インフォーマという作品に広がる世界観の根底
何年もの歳月をかけ、物語を生み出しても大してカネにならないかもしれない。翻せば、カネの力では大勢の人々の心を揺さぶることができない。そこに物作りの醍醐味があるのではないだろうか。
私は物語を生み出すとき、常に既存のイメージや固定観念をブチ破ることからスタートさせる。誰しもがこれまで「情報屋」と聞けば、闇に潜んで身を隠す者を連想したたはずだ。その固定観念をブチ破るのは、容易いことだった。なぜだかわかるだろうか。私自身が、ものを書くという世界で生き残るための活路として自ら見出したのが「情報を司る」ことだったからだ。
情報の収集力やそのスピード、分析力において、私はどれだけ謙遜しても、他人に負ける気がしない。そして情報を扱うが上で、いつの頃からか弱者側で戦ってみたくなっていった。それは何も難しい感情ではなく、困っている人が目の前にいれば、助けてやりたいという当たり前のものだ。そうやって生きていれば、どうなるか。それも実に単純なことで、人から信用されるようになってくるのだ。人に信用されれば、人脈が生まれてくる。そうやって、沖田にだったら、と情報が集まって来るようなネットワークを自分で構築してきたのだ。
私の人間関係や人脈の実像は私しか知らない。それが私の最大の武器だろう。肝心なことは何があっても話すことはない。その世界観が『インフォーマ』という作品の根っこの部分となっている。だからこそ刺激的なのではないか。
その上で私には、物を書くスピードと登場人物の名前を考える力については、自分を俯瞰して見ても、すまん、ずば抜けている。私は物語を生み出すとき、私の中で登場人物の名前がハマらなければ、書かない。字埋れしない字面と口にしたときのイントネーション。まずはそこから始めるのだ。その段階まで作りこんで初めて、その名前に魂が宿り、躍動し、親しまれていくのである。それを理解できている書き手はいるのか。すまないがいたとしても、数えるほどしかいないだろう。