そうした社会性に連動して、本作が政治的過ぎて思想の押し付けだとする見方もネット上ではさかんに言われていた。一般の視聴者から識者までさまざまな意見があったが、中にはエンタメと政治は切り離すべきという暴力的な言い方まであった。
映像作品に限らず、日本の音楽界でも例えばよくアーティストが政治的発言をすると、すぐに批判の対象になる。批判者はみんな口を揃えてこう言う。音楽に政治を持ち込むな、と。
でもこれってすごくおかしなことではないか。映像でも音楽でも作り手が世界(社会)に属する限り、作品にはその人が社会をどう見つめ、考えているのか、その思想が意識的、無意識的問わず込められる。特に映像は、恣意的に切り取られたフレーム自体が、たぶんに政治的であり、自ずと社会派的な機能を内在している。
◆一言、言えば済むことを
直接的なメッセージの有無に関わらず、作品が作品である以上は、当たり前にソーシャルでポリティカルだということ。だから、いちいち、社会派だの政治的だのと議論するのが、そもそも野暮な話なのだ。
ただし、作品とは作り手のメッセージを語り、伝えるための道具(手段)ではないことも理解しておく必要がある。『虎に翼』の場合、第23週の原爆裁判あたりから、加速度的に問題提起と解決のための議論を繰り返す説明的場面が増えた(尾野真千子によるナレーションしかり)。
これが後半部に感じる「箇条書き」的で現代史の授業のような印象を強めた。授業のための資料映像ならまだしも、本作はエンタメ的なテレビドラマだ。どれだけ社会的に意義があるメッセージを込めようとも、なるべく慎ましく簡潔に伝える工夫をしなければならない。
はっきり言ってしまえば、一言、言葉で言えば済むことをわざわざ映像表現でやらなくてもね……、という。映像とは言葉よりもっとパワフルなメディアである。長く説明的な会話は映像表現を間延びさせる。