亡き皇后・定子が3首の辞世を残す中、もっとも有名な歌が
「煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ」
なのですが、その中にも「露」という言葉が出てくることに気づかざるをえません。

 この歌に言葉を補った「要約」が「私(定子)は一条天皇がいる現世にとどまり続けたい。だから火葬され、煙になって天に昇ることは拒絶したい。私は煙ではなく、草の露となって帝の傍にいます」となります。

 つまり、一条天皇は定子の最後の歌にかぶせて自分の辞世も詠んでいたことを、天皇に長くお仕えした行成はその場でピンと来ていたのです。前回は道長が圧力をかけ、定子が生んだ第一皇子・敦康親王(片岡千之助さん)ではなく、彰子が生んだ第二皇子・敦成(あつひら、濱田碧生さん)親王を三条天皇の東宮(皇太子)にゴリオシする展開が描かれていましたけれど、まぁ、実際にあのようなトラブルが起きた直後だから、一条天皇も道長への反抗心を辞世で披露し、世を去っていった……と考えるほうが自然な気もします。

 ところで、行成は天皇の辞世の歌を
「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことぞ悲しき」
と補完しています。

 当時の貴族や天皇など貴人は一般的に火葬されるのが通常ですから、天皇も自分が火葬になって、塵と消えゆく運命であることは逃れようがないとわかっているのだけれど、それは自分に先んじて亡くなり、露となった定子をこの世に置いていくことだから悲しいといっていると行成は解釈したのです(藤原行成『権記』)。

 その一方で、藤原道長は日記「御堂関白記」の中で、天皇の辞世の歌を
「露の身の 草の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」
と書いています。「ことぞ悲しき」は7文字の句ですが、「ことをこそ思へ」だと8文字で、和歌の最後としては「字あまり」になってしまいますよね。なんらかの作為を感じる部分です。

 これが道長の歌のセンスだったのかもしれませんが、おそらく「悲しき」で終わらせると、道長の愛娘・彰子ではなく、亡き皇后・定子の影がちらつくため、道長としてはそれがイヤだったのでしょう。天皇が、お側に控えている彰子をさし置いて先立たざるをえない自分の不幸について、考えてしまうというふうに読めるよう、和歌の語尾を微妙に小細工した「疑惑」も出てくるのです。