「ねえ」と大きな声で呼ばれ、イヤだなと思ったけど無視するのも気が引けて、渋々境界線まで行ってみると、同じようにコンロの用意をしている奥さんの姿が見えました。

「炭に火をつけたいんだけど、ライターを忘れちゃって。よかったら貸してくれない?」

奥さんの手前だからか、すました声でそう続ける男性に、伊田さんはとっさに「嘘だな」と感じたそうです。

「いかにもこっちに話しかける用事を作ったって感じじゃないですか。キャンプ好きな人なら多目的ライターを忘れるとか考えにくいし、そこまでして相手をしてほしいのかと思いましたね」

そばにいた友人も同じ感想で、ふたりで「気持ち悪いね」とコソコソ言い合ったけれど、家族の前ならすぐ済ませられると思い自分たちが使っていたものを差し出しました。

◆隣の気配をなるべく感じないように過ごした

「ありがとうね」と言いながら男性は受け取ったのですが、そのときライターを持っていた友人の腕に触れてきたのを、伊田さんは見逃しませんでした。

「後で返すね」と言われたので、これ以上関わるのはごめんだと思った伊田さんは慌てて「私たちも使うので、ここで待っています」と返し、火をつけ終わった男性からライターを取り返しました。

焚火をする女性
「もう夜だし、話しかけられても無視していよう」と決めて、それからは低い音量で音楽を流して食事を楽しみ、隣の気配をなるべく感じないように過ごしたそうです。

◆夜になると、男が酒を持って乱入してきた

その夜のこと。

ふたりで焚き火を囲みながらあれこれと話していると、がさっと足音がします。

「時間は22時くらいで、周りの人たちは同じように火を起こしているか真っ暗でもう寝ている感じかで、お隣さんも声が聞こえないし、やっと静かになったねと友達と話していたところでした」

そんなときの物音で、ふたりともはっとしたそうですが、姿を現したのは隣のテントの男性。手にはビールの缶を持っていて、「さっきは助かったよ」と言いながらさも当たり前のようにふたりに近づいてきたそうです。