ちなみに古代日本では認められていても、平安時代ではすでに異母兄弟姉妹の間の恋愛は禁止項目になっていましたから、ドラマのように賢子の実の父親は道長だったということは実際にはありえないと考えられる理由でもあります。

 史実の紫式部と賢子の母子関係は明らかではありませんが、ドラマほど賢子は気難しくはなかったと思われます。

  後年、賢子は道長の亡き次兄・道兼(玉置玲央さん)の長男・兼隆の妻の1人となって、娘(氏名不詳)を授かります。しかし、賢子はその直後に親仁親王(のちの後冷泉天皇。端的にいうと彰子の孫)に抜擢されて忙しくなり、兼隆とは次第に疎遠になってしまいました。それでも兼隆は賢子が産んだ娘を大事に養育し、娘はのちには源良宗という貴人の正室にもなっているので、円満離婚だったのではないでしょうか。ある意味、現在以上に多様な夫婦関係があり得たのが平安時代の貴族社会だったのです。