東京の大学に進学した学生が長期休暇に地方にある実家に戻り、東京での生活を語ると、それがただの自慢話に聞こえてしまうのはよくあることですね。それと似たシチュエーションが、紫式部の宿下がり中に発生したとしても、おかしくはありません。
しかし史実の賢子が、ドラマの賢子のように宮中のあれこれを語る母親に距離を感じるようなことはなかった気はします。おそらく史実の賢子は、母親の自慢話を嬉しく聞いて、自分もそこに行きたいと願う娘だったのではないでしょうか。
エッセイストの故・近藤富枝氏も「賢子は現実的で、享楽派で奔放であった」と評していますが(『紫式部の恋』)、紫式部の娘の賢子は、華やかな人柄で知られた藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)の遺伝が強く出ているとよくいわれ、その証拠として、彼女に何人もいた恋人男性の名前が挙げられるのです。史実の紫式部はドラマとは違って、道長(柄本佑さん)との関係も日記で「匂わせ」する程度にとどまっていたようですし、宣孝と結婚する以前も、彼が亡くなった後も、具体的な関係を噂される殿方の名前は誰ひとりとして伝わっていません。
紫式部の晩年には、娘の賢子も中宮・彰子に女房としてお仕えするようになっていましたが、若い頃に道長の次男・頼宗(上村海成さん)、五男・教通(のりみち・吉田隼さん)という「色好み」で知られた貴公子と出会い、かなり親密に付き合った形跡があります。
賢子は頼宗に対し、次の熱烈な和歌を送りました。
「恋しさの 憂きにまぎるる ものならば またふたたびと 君を見ましや」(憂鬱な日常を恋でまぎらわせることができるものなら、何度でもあなたに会いたくなるわ)。
本命の女性を定めず、フラフラしている意中の男をなんとか自分の側に引き寄せようとしているのが伝わるような歌ですね。実際に頼宗は、賢子同様、母親のツテを頼って宮中に出仕してきた和泉式部(あかね、泉里香さん)の娘・小式部内侍にも惹かれていたようです(二世芸能人ならぬ、二世女房の存在が当時の宮廷では重視されたのは興味深いですね)。