本作についての各メディアの記事も、原爆裁判だけでなく、同性愛や夫婦別姓、尊属殺など、現代史の諸問題を作品背景として語るものばかりだった。けれど、そうした実際の画面上には写っていない要素やテーマ性ではなく、常に画面上に写っていることに目を向けさせたのが、桂場等一郎の存在だったと思う。

 それだけに桂場は貴重な存在であり、本作全体を映像作品として純粋に守り抜くような役割を担った。寅子を筆頭にあらゆる登場人物を演じる俳優たちが、社会的テーマ性に気を配り過ぎるあまりに演技をやや硬直化させていた。その一方で、桂場役の松山だけがただひとり、一貫して画面を注視させ続けてくれた。

◆前景におさまっていたことが感動的

 寅子以外の判事として唯一、第1回からレギュラーメンバーであり続けたのが、桂場でもある。全130回の間、桂場役の松山は、微妙に差をつけて細かな動作を繰り返しながら、役全体としての繊細な微動の表現を極めた。

 第22週第108回、東京地方裁判所所長時代には、寅子が提出した意見書を能楽的にそろりと元の位置に微動させたり、最高裁判所第5代長官になると、東京家庭裁判所所長になった久藤が、家庭裁判所の父と称される多岐川幸四郎(滝藤賢一)が書いた意見書を置く第24週第120回。

 書類に手を伸ばすまでの桂場の厳めしい無音の微動は、まるでサイレント映画俳優の佇まいにまで極められていた。微動の俳優・松山ケンイチの存在感をこれでもかと見せつけて迎えた第128回。尊属殺の重罰規定に対して、桂場が長官であるとともにひとりの人間として違憲判決を下した瞬間では、それまでの重々しさから少し解き放たれるように、唇を左右へむにゅむにゅと複雑に動かす(長官室に戻って引き出しから出したチョコレートを急いで口に入れるのも絶妙)。