鎌倉時代に書かれた『古事談』という説話集によると、彰子が敦成親王を授かるまでは、昼は道長におもねっている公卿たちですが、夜はこっそり伊周のご機嫌伺いに彼の屋敷まで参上していたそうです。ところが、後に天皇に即位し、後一条天皇となられる敦成親王の誕生後は、伊周を訪問する者は絶えていなくなったそうで、伊周に残された現状打開策は呪詛くらいしかなくなっていたと考えられるかもしれません。
彰子の初産のときに現れた物の怪の名乗りから、密かに伊周とその血縁の者は道長によってマークされており、彼らになにか怪しい行動が見られれば、すぐさま罰が下るようになっていたのでしょうね。貴人のお産にまつわるすべてが「政治」に結びついていた当時らしい展開です。
中宮・彰子の最初の出産は、貴族たちから熱い注目を浴びていたビッグイベントでした。ドラマにも彰子が養い親として育てている、一条天皇が皇后・定子との間に授かった第一皇子・敦康親王(渡邉櫂さん)が登場していますが、親王は定子の兄である伊周(ドラマでは、道長と彰子を熱心に呪いつづけているよう描かれている)の甥にあたります。仮に彰子が一条天皇との間に皇位継承件のある皇子を授かれぬままだった場合、敦康親王が次なる帝になる可能性は高くなります。
そうなれば伊周の天下が再び訪れるのですが、道長もそう簡単に諦めるとは思えず、宮廷は伊周派と道長派に二分され、内乱のようになることが予想されました。多くの公卿たちが彰子の初産に注目していたのは、彼女が皇子を授かり、道長政権を名実ともに盤石にできるかどうかが危惧されたからでしょう。定子の出産の記録が比較的乏しいのに対し、彰子の記録が非常に豊富なのは、まさに現在の宮廷の最高権力者である道長と、その一派の今後の命運が彰子というひとりの女性に託されていたからで、その期待の表れなのです。
しかし彰子自身は初産から皇子を授かる幸運に恵まれたものの、義理の息子の敦康親王こそ、自分が腹を痛めて産んだ敦成親王より次の帝にふさわしいと強く主張し、道長を困らせるほどでした。しかし、敦康親王は叔父・伊周の死によって有力な後見人を失っていますから、そういう皇子はいくら先に生まれていたところで、別の有力な後ろ盾を持つ弟に帝位を譲るほかはありません。