弥生さんは弥生さんで、自分がむかし堕ろした水子を忘れないと決めたことで、自分にその子を忘れさせる時間を作ってきた。
ドラマは、それぞれにとって大切な人を「忘れさせる」ことの効果効能を説きながら、夏くんを「忘れさせることができない人」として定義したまま幕を引いています。海ちゃんは、まだ全然、一時たりとも水季のことを忘れることができない。そういう景色を、夏くんは見せることができていない。
穏やかなエンディングを装いつつ、夏くんに「まだ序の口だ、まだまだ不十分だ、まだまだまだまだ悩み抜け」と言っているのです。決して責任の追及をやめない。ただ一度、避妊に失敗しただけなのに。恐ろしい話です。
■「選択肢」の器としてのボンクラ男
このドラマは夏くんを徹底的に「後手の人」として描いてきました。自ら率先して何かを決断したり、変化させたりということができない。誰かに強く言われたり、決断しなきゃいけない場面が現れてからじゃないと、何も考えられない。別に大した理由もないのに、仕事も変えられないし、アパートも引っ越せない。全部「なり」でやってる。
そういう夏くんに次々に厳しい選択肢を与え、「どちらかを選べ、どちらかを捨てろ」と迫り続けました。
「海ちゃんも弥生さんも両方大切だから、両方守る。2人ともに、とびきりステキな景色を見せてやる。なんとかする。うるせえ津野、おまえすっこんでろ」
夏くんがそう言えたら、海ちゃんも安心して水季のことを心の引き出しに仕舞えたかもしれない。津野くんももっと素直に引き下がれたかもしれない。
夏くんを、それができない男として登場させて、なんとか軟着陸させたのは脚本家の優しさ、良心の部分だと思うし、「そんな男でもチ○ポは勃つんだ?」っていう蔑みと諦念も含んでいる。こういうとこ、言葉を選ばずにいえば「女の脚本」だなって感じたんですよね。女々しいってことじゃなくて、どうしたって「産ませる側」じゃなく「産む側」の性からの視線だよなって。