実資の日記『小右記』によると、公任には木幡の墓地(現在の京都府宇治市)を散骨の地として勧めています(寛仁2年=1018年、「六月十六日条」)。実資、公任、そして道長なども藤原氏の中で「北家」といわれる血統の出身者なのですが、その中でもとくに高い社会的地位を得た男性や、天皇の女御などになった高位の女性の遺骨だけは、木幡の墓地に埋葬、もしくは散骨したほうがいいと考えられていたからです。

 しかし、墓地とはいっても、この当時の感覚では、誰それのお墓という印を長年わかるように建てる発想はありません。その一方で、木幡に一族の墓地を定めたことが藤原北家に栄光をもたらしたと実資は考えていたので、こういうところには現代に続く「お墓は大事」という価値観の原点があるような気もします。

 道長も木幡の墓地に葬られましたが、彼の墓の場所は今でも特定はできていません。一応、現在では過去よりも高い精度の推測ができるという程度でしょうか。

 当時の仏教は、人間死んだら「無」になると考える宗教だったのですが、死のケガレに敏感すぎるわりには、あまりに簡素なお葬式と埋葬が行われていた平安時代の貴族の常識には驚いてしまいますね。

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