■ここはどこ、私は誰で、どんなキャラ?
記憶喪失を扱う場合、その主人公がどんな記憶を失ったかが示された次に、「何を思い出したいか」が提示されることになります。『くるり』ではそれを「自分のキャラ」というものに求めるわけですが、まことはこの「自分のキャラ」をひとつずつ発見していくたびに、ゲンナリしていくことになります。
家に帰ったら、部屋はめちゃくちゃに殺風景で物がない。クローゼットの中は地味で無難な服と、クソダサの寝巻きしかない。やっとログインできたインスタに並ぶのはどこにでもあるカフェごはんの写真ばかり。
会社に行ってみたら、同僚との人間関係もペラペラで、誰も「自分のキャラ」をちゃんと認識してくれていなかった。なんだ、私ってつまんない女だったのね。そこでまことは、記憶を失って初めて涙ぐむことになります。
記憶喪失というと大仰な悲劇を思い浮かべてしまいますが、『くるり』ではそれを「ふと気づいたら」くらいの感覚で描いています。ふと気づいたら、私って地味な服しか持ってなくない? ふと気づいたら、私ってホントの友達いたっけ? ふと気づいたら、何が楽しくて生きてたんだっけ? そんなことにふと気づくと何もかも全部リセットしたくなる願望って誰にでも起こりえるものだと思うけど、そのリセットが強制的にかかった状況としての記憶喪失なんです。このドラマにおける記憶喪失は、まことにとって、むしろ生まれ変わるチャンスにも見える。
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