大蔵省に出仕

(画像提供=キャプテンフック/stock.adobe.com)

ヨーロッパ訪問中の1868年に日本では明治維新が起こります。それにともない渋沢栄一も帰国。現在の静岡に謹慎していた徳川慶喜から「これからはお前の道を行きなさい」と言われたこともあり、独自の生き方を模索し始めます。

まずは1869年1月に静岡に金融会社「商法会所」を設立。フランスで学んだ株式会社の制度を実際に試してみる狙いがありました。しかし明治政府の財政責任者でもあった大隈重信から説得され、同年10月には大蔵省(現・財務省)に入省。官僚となった渋沢栄一は、度量衡や国立銀行条例など近代日本の基礎となるような制度の制定に携わっていきます。

その後予算編成が原因で大久保利通や大隈重信らと対立すると、1873年に上司の井上馨と共に大蔵省を退官。同年、民間の経済人となった渋沢栄一は、日本最古の銀行である第一国立銀行(現・みずほ銀行)を創設します。

実業家・シリアルアントレプレナーへ転身

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渋沢栄一は、第一国立銀行の総監役となり実業界で活躍し始めました。その後、利潤追求という企業の目的の根底には道徳が必要だという「道徳経済合一説」を理念的な基盤としつつ、さらなる株式会社の設立や後進の育成に注力していきます。

渋沢栄一が設立や経営に関わった企業は、以下のように現代でも活躍している有名企業を含めて計500社以上とも言われているのです。

  • 王子製紙(現・王子ホールディングス)
  • 日本郵船
  • 東京瓦斯(現・東京ガス)
  • 田園都市株式会社(現・東急)
  • 大日本麦酒(現・アサヒグループホールディングス)
  • 札幌麦酒(現・サッポロホールディングス)
  • 帝国ホテル
  • 東京証券取引所など

1875年に現在の一橋大学の源流となる商法講習所の設立に協力するなど、教育機関の設立にも貢献しました。次から次へと新たな事業の立ち上げや経営に協力していった渋沢栄一は、まさに日本初のシリアルアントレプレナー(連続起業家)と言えるでしょう。日本の経済と社会の礎を築いた彼は、第2次世界大戦勃発前の1931年11月11日に満91歳でこの世を去ります。

一度きりの人生、果敢にチャレンジしてみよう!

渋沢栄一は、倒幕運動を目指す志士から徳川家の幕臣、さらに明治政府の官僚、そして民間の実業家と社会状況に応じて転身し続けました。言い方を変えれば「臨機応変に自分にできることを全力で取り組んできた」とも言えるでしょう。

現在の社会にはさまざまな職業があります。新卒で入社した企業に一生身をささげることもいいですがせっかくの一度きりの人生です。「やりたいことや自分にできることが他にある」と感じている人は、渋沢栄一をお手本にして果敢にチャレンジしてみるのもよいのではないでしょうか。

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