【第4週】女子入学をめぐる東北帝国大学の情けないウラ事情
三淵嘉子たちが司法試験を突破し、日本最初の女性弁護士になったのは昭和13年(1938年)のことです。女性弁護士の誕生は、女医よりも半世紀も後だったのです。これも女性弁護士は、男性社会からニーズがなかったことが影響していそうです。
背景にあるのは、家庭や社会の潤滑油のような扱いを受けていた女性たちが、弁護士になったり、そのための勉強をすることで「権利を知って、口やかましくなるのではないか」「男性以上の権利を主張しはじめるのではないか」、あるいは「女らしさを失うのではないか」というような危惧があり、男性たちから反発を受けていたことが指摘されます。
女性が高等教育を受けることにも同じ理由で反対が強く、明治33年(1900年)に女子英学塾(現在の津田塾大学)、明治34年(1901年)に日本女子大学校(現在の日本女子大)などの女性のための高等教育機関が設立されてはいたのですが、これらの私立の学校は、文部省が定める「大学令」も認める正規の大学ではなかったのでした。
当時の日本の文部省は、「良妻賢母」を育成する以外は「正しい女子教育」だと認めないという立場を打ち出していたからです。
そんな中、繰り返しになりますが、大正2年(1913年)、東北帝国大学というれっきとした「正規の大学」に女子生徒の入学が許可されたのは、本当に画期的な事件ではありました。
しかし、これにも情けないウラ事情があって、東北帝大に入学希望する男子生徒が少なく、定員割れが続いていたので、女子生徒を補欠として使うしかなかったということなのですね。
当時の東北帝国大学の学長・澤柳政太郎は「女子生徒にも高等教育を!」という進歩的な考えを持っていたのですが、学長が変わると女子生徒の募集はしばらく停止し、柳沢も転任先の京都帝国大学では、女子生徒の募集は行いませんでした。京都帝大はすでに男子生徒から人気でしたから、女子による穴埋めなど必要なかったのです。
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