さて、今回は、陣の定めでも議題となった「宋人」たちについてお話してみようと思います。史実では長徳元年(995年)8月下旬ごろ、朱仁聡・林庭幹らを含む「宋人」の商人たち70人余りが乗った船が若狭国(現在の福井県西部)に来着したと考えられ、その知らせが朝廷に届いたのが9月初旬のこと。そして9月4日以降、藤原道長の先導で会議が重ねられ、「宋人」一行は越前国(現在の福井県北部)に移動させられることになりました。

 移動の理由は、当時の日本は名目上にせよ「鎖国」しているため、太宰府(現在の福岡県)以外では、越前国にて外国人(商人)との交流が行われていたからです。越前国の敦賀港には外国人たちが滞在するための「松原客館」などの名前で呼ばれる施設が設けられ、一説には気比神宮内、もしくは気比の松原にあったといわれていますね。

「宋人」こと中国人商人たちの来日は「986年から1000年までの14年間の状況をみても、15件の宋商に関する記録がある(『図説日本の歴史 5 貴族と武士』)」とのことで、1年に1回くらいのペースですから、都の貴族たちにとってはさほど珍しい出来事ではなく、朱仁聡の来日も永延元年(987年)に続いて、これが2回目でした。

 しかし、原則的には中国商人は博多に到着すべきというルールがあったのに、今回の朱仁聡一行の船は朝鮮海峡を越え、日本海を通って(おそらく主要顧客である貴族たちが住む京都に近いという理由で)勝手に若狭国に到着してしまうという強気な態度を見せていました。