もちろん、ドラマでも描かれたように、花山院の藤原忯子(井上咲楽さん)への愛情は本物でしたし、詐欺のような経緯での出家でしたが、しばらくの間は日本各地で本格的な仏道修行にいそしんだことが知られています。しかし、花山院の中で忯子の供養が一段落し、都に戻ってからの女性関係は乱脈の限りで、自分の乳母だった女性と彼女の娘を同時に寵愛し、996年(長徳2年)1月16日には、また別の女性の屋敷にコソコソと出かけている時、「自分の恋人を花山院が寝取った」と勘違いした藤原伊周(ふじわらのこれちか)と弟の隆家から矢で射られ、殺されそうになるという事件が起きました。

 花山院が故・忯子の妹に夢中になっていた時の話です。さすがの花山院も藤原伊周の恋人には手出ししておらず、伊周と弟の隆家による盛大な誤解だったと後に判明したのですが(花山院の恋人と、伊周の恋人は姉妹で、二人は屋敷に同居していただけ)、花山院は被害者であるにもかかわらず、私生活が世間にさらされ、大ハジをかきました。これが歴史用語でいう「長徳の変」の内実です。花山院の破天荒な人生については、まだ書きたいことがありますが、『光る君へ』でも色々と取り上げられる気がするので、またの機会に回しましょう。

 今回、とくに触れておきたかったのは、「なぜ花山天皇は、早期退位に追いやられねばならなかったのか」という点です。文字数の制限があるので、ごく大雑把な話になりますが、花山天皇は17歳で即位してから約2年の間に、中流貴族の出身である藤原義懐(ふじわらのよしちか)と、藤原惟成(ふじわらのこれしげ)という二人を抜擢し、かなり急進的な政治を行っていました。それが既得権益層である(藤原兼家など)上流貴族たちから問題視され、いわば「クビ」にされるような形で退位させられてしまったともいえるのです。

 当時の日本には「律令体制」の名残がありました。花山天皇は、すべての土地/人民は朝廷(=天皇)のものであるという、律令体制の大原則をあまりに拙速に回復しようとしてしまったのです。