1967年、色川は東京経済大学の教授に就任。底辺の民衆の視点を貫いた「色川史学」を確立。1975年に毎日出版文化賞を受賞した『ある昭和史 自分史の試み』(中央公論社)では「自分史」という言葉を作り出し、一大ブームを巻き起こした。

 色川は『苦界浄土』を著した石牟礼道子の求めに応じて水俣病の学術調査にも取り組んでいる。

「当時、色川先生は妻子ある身で、周囲から不倫関係だと揶揄されたこともあった。二人の関係は、やがて奥さんにも知られることになりました」(知人)

 それでも上野は突き進み、1997年10月に八ヶ岳の麓に約300坪の土地を購入すると、翌年8月、彼女は色川と共同で2階建て、137平米の木造一軒家を建てた。

 文春が登記を見ると、所有者欄には2人が名を連ね、色川が3分の2、上野が3分の1の持ち分となっているそうだ。

 当時73歳の色川は、妻と住んでいた八王子市内の一軒家の一部を妻に生前贈与して、八ヶ岳に移住。翌年には所有していた東京都渋谷区のマンションの1室も売却したという。 

 妻子から離れ、おひとりさまになった色川のもとに足しげく通ったのが、当時50歳の上野だったのである。

 色川は晩年、訪問介護を受けていたという。

「上野さんは『(訪問介護で)美味しいものを食べられないから、私が作ってあげている』のと手料理を振る舞っていた。彼女は色川さんのことを『おじさん』と呼ぶんです。色川さんは運転ができないので『私がおじさんのアッシー君をやっているのよ』って」(近隣住民)

色川の最晩年の3年半にわたる要介護生活を支え、2021年9月7日、最後を看取ったのも上野だった。

 昨年5月に出版された色川の追悼本『民衆史の狼煙をー追悼 色川大吉』に、上野はこんな一文を寄せているという。

「このひとの晩年に、共に時間を過ごすことができたことは、私にとってえがたい幸運でした。(略)家族をつくらなかったわたしが、これほどの深さで受け止めた思いを残してくれたのは、色川さん、あなたです」

 いい話じゃないか。これほどの情熱的な思いを胸に、ひとりで生きるなんて、上野は幸せ者だな。(文中一部敬称略)