どちらかといえばこの“競技大喜利”を視聴者と共に楽しむという立場であり、いわゆる副音声、今風にいえば裏実況のような、一緒にテレビを見ている「お笑いに詳しい兄ちゃん」くらいの役割である。何しろ権威性が必要ないのだから、前回まであの席で競技に参加していたバカリズムがチェアマンに回っても違和感がないのは当然だろう。
松本人志がいなくなって、テレビはどうなってしまうのか。お笑いファンの間ではこのところ、そんな話ばかりだ。だが、『IPPON』に限って言えば、別に問題がなさそうである。今回も面白かったし、結局のところいい回答が多く出れば盛り上がるし、そうでもなければ盛り上がらないという性質の番組に仕上がっている。
松本がいなくなって感じたのは、やはり『IPPON』という番組の純粋な競技性だった。フリップに回答を書いて答えるとか、「写真でひと言」とか、そのフォーマットが芸人の発想を引き出しやすいという事実を発見したのは明らかに松本だったはずだ。だが、それを才能ある後輩たちに競わせる番組を作ろうとしたとき、松本はおそらく、一歩引いたのだと思う。なるべく自分の発想や存在感が競技に影響を及ぼさない立場を作り、そこに収まることによって競技としての大喜利の純度を高める。芸人の発想そのものを主役にする。自らが“お飾り”になる。
番組初期から松本がそうした考え方で「チェアマン」という別室から出てこなかったからこそ、『IPPON』は多くの芸人に恩恵を与えてきた。
【こちらの記事も読まれています】