◆“天才”自称にはホラ吹きと本気があいまいに混じり合っている
松本人志のカリスマ性は、こうした本気ともウソともつかぬ宙ぶらりんの真空地帯の中で肥大していき、また視聴者やファンも彼に協調して育てていった側面があるのです。
本来話芸であるはずのホラ吹きからにじみ出てしまう自我。筆者は、この芸と本性があいまいに混じり合った部分に、人々が松本人志を語りたくなってしまう理由があるのだと思います。判断がつかないからこそ、結論を導き出したくなってしまうのですね。
◆“修業ではなくアイデア勝負の笑いで勝利したが…”論
よって、松本人志の評価は様々です。
杉田俊介氏は、松本の唯一無二性とは修業や学びによってたどり着いた境地ではなく、むしろ教育の欠如からくる無力さをひっくり返したアクロバットだと分析しています。
<松本は実存感覚としての底辺的な無力さから、一足飛びに、笑いと芸能の質を逆転してみせる。完全敗北の意味を変えてしまう。完全敗北しているからこそ、私だけが天才であり、神である、と。もっともつまらないものこそがもっとも面白い。そのような芸能の論理によってすべてをなし崩しにすること。>(『人志とたけし―――芸能にとって「笑い」とはなにか』 晶文社刊 p.84)
教養の積み重ねを否定して、お笑いを瞬間的なアイデア勝負の競争に引きずり込んだことにより、松本は絶対的な勝利を得たのだというのですね。しかしながら、それは杉田氏によれば<空疎さと尊大さがねじれて一致していく>(同書 p.59)虚無(きょむ)にしかならず、そこに言い知れぬ気味悪さを禁じ得ないと言っているのです。
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