秀頼はその後、「菊丸自斎」と名乗り、山里に隠れ暮らしながら、80代まで長生きしたそうです。肥後の領主が加藤家から細川家に変更になった後も、秀頼とその家族への支援は続いたとされ、肥後で秀頼が授かった2人の子どものうち、弟のほうは「菊丸殿」と呼ばれ、後に島津家家臣・伊集院家の養子となって薩摩で暮らすようになったのだとか。また、姉のほうは細川家の家老・有吉家に嫁いだそうです。彼女の名前は史料によって「古屋(こや)」もしくは「お辰殿」とさまざまです。生年についても史料ごとに違いがあるため、この女性が本当に実在したかどうかは疑わしいと言われれば否定できませんし、そもそもインパクトが強い見た目の秀頼が、千姫のように落城間際の大坂城から敵の目を盗み、戦場を突っ切るようにして抜け出すことができるのか……?という疑問は残るところですが、こういう貴種流離譚(高貴な人がどこかに流れ着いて生き延びる話)にはどうしても歴史ロマンを感じてしまいます。

 このコラムでは以前、千姫が一人前の女性になったとみなされるまでの間に、性的に早熟だった秀頼が2人の側室との間に男女2人の子どもを授かっていたことをお話ししました。この秀頼の子どもたちは結局ドラマには登場しませんでしたが、娘のほうは、千姫がわが子同様に大切に養育していました(男児の数奇な運命については後述)。そして慶長20年(1615年)5月7日、豊臣家の敗北が決定すると、ドラマにもあったとおり千姫は義母と夫の助命嘆願を行うべく、命の危険を顧みず、家康と秀忠の陣に向かったわけですが、このタイミングで、秀頼と側室との間に生まれた姉弟(一説には兄妹)もそれぞれ別々に大坂城を脱出しており、市井に潜伏することになりました。

 秀頼と茶々の死、そして大坂城の天守炎上から4日後の5月11日、京極忠高が娘を探し出して捕らえ、幕府に差し出したという記録があります。千姫の嘆願によって、この時は娘の命ばかりは助けられることになり、鎌倉の「縁切り寺」としても有名な東慶寺で尼として生き残ることができました。後に天秀尼という名で同寺の住職を勤めるまでに大成し、その人徳で庶民たちからも慕われました。しかし、彼女は結婚禁止の尼僧ですから、子孫はおらず、秀頼の血脈はここで絶えてしまっています。

 では秀頼の男児はその後どうなったのでしょうか。幕府は意外にも、秀頼の娘が京極家によって捕縛された時初めて、秀頼に男子がいたという事実を知ったようで、厳しい詮索が開始されました。国松丸という名のこの男児はお供の者たちと山城国伏見(現在の京都・伏見)に隠れていましたが、5月21日に発見され、23日には六条河原で処刑されました。わずか8歳での死でした。