史実において、秀頼と茶々は大坂城・本丸の北側に位置する山里曲輪(山里丸)という場所で自害したと伝えられています。かつて秀吉が茶室を建てた場所でした。この山里曲輪の遺構は、現在の大坂城公園にある刻印石広場の地下数メートルに眠っているようです。

 ドラマでは、秀頼や茶々、そして家臣たちの集団自害の後、家康が拝むシーンを挟んであっという間に「安寧の世」が訪れる展開となっていましたが、実際には大坂の陣の後、秀頼と茶々が本当に自害したのかどうか、徳川方による検分が行われました。史実では本丸の北側にある山里曲輪に彼らは移動し、建物に火を放った上で全員が自害したと伝えられていますが、30ほどあった遺体はすべて黒焦げだったため判別がつかず、その結果、「秀頼と茶々の遺体は見つからなかった」という判断が下されたようです。ただ秀頼に関しては、愛用の刀がそばにあった遺体を便宜上、秀頼だとみなしています。残された遺体からでは、背が高く、しかも力士のように肥え太り、「世になきお肥り」とまでいわれていた秀頼だとはっきり断言できるものは見つけられない状態だったのでしょう。

 こうした状況もあってか、秀頼には大坂城を脱出して九州に落ち延びたという伝説が複数あります。しかも、現在の長崎県・平戸の商館のイギリス人商人リチャード・コックスの日記にも登場するくらい、すごい勢いで広い地域に「秀頼生存説」は伝播したようです。秀頼の逃亡先は、幕府とて容易に手出しができなかった薩摩(現在の鹿児島県)の領主・島津家の所領だったとするケースが主流ですが、肥後(現在の熊本県)説もあります。

 当時の肥後の領主は、秀吉子飼いの家臣だった加藤清正の子である忠広でした。肥後逃亡説では、秀頼は、豊臣方から徳川方になった織田有楽斎(信長の弟)の協力も得て大坂城の脱出に成功し、隠れ場所のある二重の船底を持つ船に潜んだり、福島正則が用意した別の船に乗り換えたりしながら肥後にたどり着けたといいます。