◆最後の舞台として伝説となるだろう

俳優は、自分と違う役を演じるものとはいえ、ベースは自分でしかない。だから自分の体験や状態と役を重ねて演じるしかない。演技で泣くとき、ペットや親と死に別れたときにのことのを思い浮かべるという話はよく聞く。

たとえば、俳優がお腹が痛いと思っていると、まったく別のシチュエーションでものすごく悲しそうに見えたりするし、照明が熱くて汗をダラダラかいていると、泣いてるように見えたりする。そうやって、自分の状態を役に重ねて、芝居のクオリティーをあげることも技術である。

見ている側も、勝手に物語と別の、俳優のイメージと重ね合わせてしまうもの。筆者もまさにそのひとりであったわけだが……。

今回、世の中の東山に対するイメージと、この役の悲劇性が重なることも可能な状況で、この舞台が上演されたことは、東山紀之、最後の舞台として伝説となるだろう。

これまで決して脱がないできた鎧は、脱げなかったのではなく、脱がないという強い意思のもとであり、ここぞという役で脱いだとしたら、やっぱり東山はかなりの“役者”だとも思う。

その一方で、せっかくの名演技も、それとこれ(性加害の問題)は違う。一緒にしたら失礼だという見方もあるだろう。

いずれにしても、東山紀之は「チョコレートドーナッツ」で、ひとり、ひとりの自由と尊厳とは何なのか、この世に誰もが等しく思うがままに生きることの困難の重みを強く感じさせてくれたのだ。

<文/木俣冬>