いずれにせよ、夫と離婚させられた旭姫は、家康のもとに送られることになりました。家康は「旭姫が男子を産んでも、徳川家の嫡男にはしないこと」「嫡男の長丸(のちの徳川秀忠)を人質にはしないこと」「旭姫や家康が亡くなっても、秀吉は現在の徳川領5カ国を長丸に継承させること」の3つの条件を秀吉に呑ませ、旭姫との結婚をようやく承諾しました。しかし、この交渉においても、真の勝者は秀吉だったと見ることができます。旭姫と家康が結婚するということは、秀吉にとって家康は妹婿、つまり義理の弟となり、家康は義理の兄である秀吉の意向に逆らいづらくなるからです。
こうして小牧・長久手の戦いから約2年後の天正14年、44歳の旭姫は、彼女よりひとつ年上の家康の正室となるべく、大坂城から、家康の居城・浜松城に旅立ちました。当時の年齢感覚では立派な初老の新婚夫婦です。それでも旭姫の婚礼行列は、1700人もの使用人に担がせた長柄の輿・吊り輿あわせて27丁、数しれずの嫁入り道具と多額の持参金が運ばれるという壮麗なもので、当時の公家の日記『言経卿記』にも、「美麗驚目(びれいきょうもく)」と書かれました。
4月28日に大坂を出た行列が浜松に到着し、祝言が挙げられたのは5月14日でした。この時、旭姫と家康の嫡男・長丸との間に母子の契りを結ぶ杯も取り交わされたといいます(『改正三河後風土記』)。また、家康と旭姫の結婚にあたり、秀吉の強い希望で本多忠勝が納采の使者に選ばれ(『東照宮御実紀』、以下『御実紀』)、結納の使者として榊原康政が活躍しました。
しかし、旭姫の輿入れの後でさえ家康は上洛する気配を見せず、業を煮やした秀吉は、実母の大政所(おおまんどころ)を人質として家康のもとに送りつけます。母親には「人質になってくれ」ではなく、「旭姫の様子を見に行ってやれ」といって浜松まで送ったそうですが、当時、関白という朝廷随一の高い地位にいる秀吉が、一介の大名にすぎない家康のもとにここまで多くの人質を送りつけることは「異常事態」でした。本心としては秀吉の配下になりたくない家康としても、これほどの「礼」を尽くしてきた義兄・秀吉の意志をこれ以上はねつけることはさすがに難しくなってきました。『御実記』によれば、家康は「(秀吉からの上洛の招きを)むやみに断るのは思いやりがない」「もし私が殺されても、それが天下泰平のための捨て石となるだろう」といって、反対する家臣たちを押し切って上洛したということになっています。