通常ならば、遠からぬ将来、ふたたび秀吉との間で大きな戦が起きていたでしょう。しかし、家康と信雄の使者が対面した翌日の夜、つまり11月29日の亥の刻(午後10時頃)に「天正大地震」が関西地方から中部地方にかけての広範囲を襲いました。マグニチュード7.2~8.1ともいわれる超巨大地震で、各地に甚大な被害が出ます。断続的に大きな余震が12月23日まで発生したと記録され、家康の所領にも少なからぬダメージがありました。
家康にとって、この大地震は不幸中の幸いともいえるものだったかもしれません。天正大地震の被害は、家康の所領の中部地方より、秀吉の拠点である上方(関西)において凄まじかったからです。いくら権勢を誇る秀吉とはいえ、この状況では家康との即時開戦は不可能になったとの見方が強まりましたが、翌・天正14年(1586年)1月、秀吉は世間のそうした目算を打ち砕くべく、尾張への出陣を宣言します。もっとも、これは家康と争うためというより、尾張を本領とする織田信雄にプレッシャーを与えることが目的だったと思われます。秀吉の動きに信雄は焦り、ついに信雄本人が岡崎の家康を直接訪ね、和睦を勧めました。家康も、ここに至って秀吉との和睦を受け入れざるをえなくなるのですが、やはり上洛はしようとしませんでした。
そこで秀吉は、新たな策として異父妹の旭姫(朝日姫とも)を家康の正室にさせるという政略結婚を考えました。家康には複数の側室がいますが、前正室・築山殿の死からは約7年が経過していたのです。
しかし、旭姫は既婚者だったので、まずは彼女を夫から引き離す必要がありました。旭姫の夫は「佐治日向守」なる人物だったと伝えられることが多いのですが、その情報の出処は幕末に編まれた『改正三河後風土記』という史料です。お市の方の娘・お江が秀吉の意向により豊臣秀勝と結婚させられ、そのために佐治一成という武将と離婚させられたという逸話があり、福田千鶴氏は著書『江の生涯』(中公新書)で、後世の研究者がこの逸話を旭姫の離婚の話と混同してしまったのではないかと指摘しています。『江の生涯』によると、『改正三河後風土記』で旭姫の夫だったとされている「佐治日向守」には、諱(正確な名前)も後世に伝わっておらず、史料上、実在した痕跡が見当たりません。それゆえ、旭姫の実際の夫は、複数いる候補の中でも副田吉成(そえだ・よしなり)という武将であった可能性が強いと考えられます。ちなみに旭姫の最初の夫には、別れる見返りに秀吉から5万石の追加を打診されたものの、それを断って自害してしまったという逸話があります(『改正三河後風土記』)。ほかにも旭姫との離婚後、烏森村(かすもりむら、現在の愛知県名古屋市)に隠遁、出家したという説もありますが(『尾張志』)、真相はよくわかっていません。