名実ともに信長(岡田准一さん)を超えてしまった秀吉に臣従するしかないと結論づけた数正と、「(それでも秀吉に)勝つ手だてが必ずある。そなたがいれば……」と秀吉との決戦にこだわりつづける家康は最後の話し合いを行いますが、「弱く優しかった殿が、かほどに強く、勇ましくなられるとは。さぞや……さぞやお苦しいことでございましょう」と主君を慮り、「私はどこまでも殿と一緒でござる」「決してお忘れあるな。私はどこまでも殿と一緒でござる」と強調した数正は、秀吉のもとへ出奔してしまいました。岡崎決戦については本多忠勝が「この岡崎に残り、民百姓が何年も戦い続ける、それのみ!」と勇ましいことを言っていましたが、ドラマの数正はそうした激戦を避けるために、徳川家の軍事や内実について知り尽くしている自分が秀吉の臣下になることで、家康に「化け物」との決戦を諦めさせようとしたのかもしれません。

 数正が残した「関白殿下、是天下人也」との書き置きは、おそらく次回・第34回「豊臣の花嫁」の内容とも符号してくるはずです。これは家康に向かって「あなたは天下人の器ではない」と伝えているのではなく、今後は「天下人」秀吉の意向とどのように渡り合うかが重要になってきますぞ、という最後のアドバイスだったような気がするのです。

 次回のあらすじには〈打倒・秀吉を誓ったはずの数正が豊臣方に出奔、徳川家中に衝撃が走る。敵に手の内を知られたも同然となり、家康は追い詰められる〉とありますが、徳川家の軍事に精通していた石川数正が天正13年(1585年)11月13日に図った出奔が家康に与えた影響はあまりに大きいものでした。情報が流出したとみて、家康は武田家の軍政を模倣し、急場の軍政改革を実施したという話もあるほどです。しかし、秀吉は家康が体勢を立て直すことを許しませんでした。

 同年11月の和平交渉では、秀吉が家康の実子の上洛を望み、家康は側室・於万の方との間に生まれた於義丸(ドラマでは於義伊)を送ることになりました。秀吉は家康本人の上洛も強く望んでいたのですが、しかしこれはなかなか実現せず、家康も交戦姿勢を崩そうとはしません。そのため、11月28日、秀吉は味方にした織田信雄に命じて家康のもとへ使者を送らせ、講和を結ぶように勧告しました。ところが、家康は信雄の使者に「秀吉と講和は結ばない」と明言してしまいました。