今週は現代がお休み。最初は、戦後を生き抜いてきた名物ゲイの物語。私はゲイバーというのはあまり行ったことがない。たまに新宿二丁目のバーに知り合いに連れていかれるだけだったが、私は先に帰ってしまった。ゲイの人を差別しているわけではない。“彼女”たちは大体饒舌で、酒を静かに楽しめないからだった。

 当時、赤坂のうす暗い通りに、たしか「熱海」というカウンターだけの店があり、そこのママさんが粋なゲイだった。元々は熱海でやっていたが、何らかの事情で赤坂に移ってきたという。カウンターで静かに飲むのもよし、ママさんととりとめのない話をするもよし。居心地のいいバーだったが、しばらく行かなかった。しばらくして尋ねてみると店はなくなっていた。

 新潮で終戦後から今まで、激動の時代を生き抜いて、92歳になる吉野寿雄だが、まだ矍鑠としているようだ。米軍の占領下、物資豊富な米兵に日本の女性たちはぶる下がり、「パンパン」などといわれた。当時、銀座松坂屋の地下や、伊東屋の上の階にも、進駐軍専用のキャバレーがあり、夜な夜な大騒ぎをしていたという。街には「星の流れに」が流れていた。

「真っ昼間からパンパンさんがいっぱい。有楽町、特に日劇(現・有楽町マリオン)のまわりが多かったわね。パンパンなんて呼び方は失礼だから、私たち仲間うちでは、銀座のパン屋さんに重ねて『木村屋さん』って呼んでいたのよ」

 パンパンの言葉の由来は諸説あり、第一次大戦後に日本の委任統治領となったサイパンで、日本海軍の水兵たちがチャモロ族の女性を「パンパン」と手を叩いていたことに由来するのではないかという説もある。

 神奈川県横浜市磯子区に旧皇族などの別邸があり、そこで月に1、2度、ゲイパーティーが開かれていたそうだ。見たこともない洋酒や、ハムにコーラがあり、飲んで騒いだ後は、日米入り乱れての乱交が始まったという。大きな芝生の庭があったから、大騒ぎをしてもバレなかった。

「このバレないっていうことが大事だったんです。当時の米軍で同性愛だとわかると不名誉除隊なので、みんな内心ではビクビクしていたのよ」

 その後、新橋烏森で日本初のゲイバー「やなぎ」が誕生して、そこには銀座の一流の店のママや、皇族までも忍んで来たという。吉野はその後独立し、数寄屋橋に「ボンヌール」を開店。東京五輪直前に六本木に移り、「吉野」をオープンさせた。そこには、長嶋茂雄、高倉健、イヴ・モンタンなどが顔を見せた。吉野は、今のジャニー喜多川問題についてこう話す。

「あんなのって本当なの? だってあなた、10歳やそこいらじゃ、まだ毛も生えてないわよ。私だったら手なんか出せないわ」

 吉野は「あの頃に戻りたい」という。戦後の混乱の中、あのメチャメチャで日本も自分も、毎日が未知との遭遇だった日々を懐かしむ。今の日本は、混乱しているという点では同じだが、「明日は今日よりも良くなる」という希望が持てない。

 私は、戦後と共に生きてきた。いつの時代がよかったかって? 私には帰りたい時代がない。今が最高ではないが、素質もなく、なんの努力もせず、ここまで生きてこられたのだから、それほど悪い人生ではなかったと思っている。