なぜこんな意見が出てくるのかというと、宮﨑監督の演出が説明的になることを意図的に避けているからだ。明らかになんらかの説明がいるような場面でさえ、説明を拒否し、登場人物は流されるようにその状況を平然と受け入れるのだ。
例えば主人公の眞人は、東京の空襲を避けて亡くなった母親の実家に疎開する。そこに住み着いているアオサギ(映画に関する数少ない情報としてポスターになっていた、あの鳥だかなんだかわからないやつである)は人の言葉をしゃべる。
鳥が人の言葉をしゃべったら普通はかなり驚くだろうが、眞人は驚くこともなくアオサギに対応し、弓矢を作って撃ち落とそうとする。その前に鳥が人語を話していることを疑問に思ってくれ。
眞人は父の再婚相手である亡き母の妹、ナツコには複雑な感情を抱いている。
父の再婚相手と言って紹介されたのが亡き母と瓜二つの顔をした妹な上にお腹に子供がいると言われて、思春期の少年が「はい、そうですか」とはならないでしょう。父親の声を担当している木村拓哉みたいに「ちょ、待てよ」ぐらいは言いたくなるところ。
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