他方で、むしろそのクレバーさゆえか、山之内はウソのエピソードを自分で補完し納得してしまうような動きも見せていく。たとえば、昭和の学校では中学卒業後に就職する人も多かったので学校でお酒を飲む授業があった、みたいなこの企画でも指折りのウソが紹介されたときのこと。伊集院が「今は絶対ダメだけど、百歩譲ってあのころの時代をかばうならばだけどね、ああやって飲んで『あ、俺はお酒弱いんだ』とかもみんなわかるじゃん。それもまぁ勉強っていうか、社会に出るからすぐに、わかったほうがいいっていう」と絶妙なフォローをするのだが、これを聞いた山之内は「ハタチになってわけわからずに一気に飲んで倒れたりするよりかは、ちゃんと先生の目が届くところで」と理解する。ウソを聞いている側も参加した合作のウソのようなものができあがっていた。
あるいは収録の合間のシーン。隠しカメラでZ世代の4人が雑談をする様子が映されていたのだが、山之内は自分より2~3歳ほど年下の出演者に小学生のときのランドセルの色について質問していた。自分のときよりもランドセルの色が多様になっていると気づいた山之内は「3個でこんだけ差があるってことは、何十年あると、そりゃ変化はありますよね。そっかそっか」と自分から納得していく。
ウソとウソのあいだを自分の想像で埋めてストーリーをつくっていく。まるで詐欺被害防止の教材に使えるような、自分は騙されないと思っている人間が詐欺に引っかかる過程を見るようでもあった。あるいは、自分でもウソと感じるエピソードを紹介する番組に仕事として出る矛盾をなんとか自分のなかで説明しようとする、人間の合理化の過程について説明した心理学の教材のようだった。
さて、こうやって山之内の立ち回りを振り返ってみると、今では考えられないエピソードに若者としてツッコミを入れ時代の変化を印象づける、というのは山之内がこの手の番組上で求められる立ち回りなのだろう。ある意味で、そういう立ち回りを的確にこなしたと言えるのかも知れない。
一方、あまりにも的確にこなすので、攻めるZ世代と守る昭和世代の関係の面白さがより浮き彫りになっていた。この企画、最初からそんな攻めと守りの構図がどこまで見えていたのかはうかがい知れないけれど、伊集院そして山之内のうまさがその構図を引き立てたのは確かなように思う。