ドラマでは、新将軍・足利義昭(古田新太さん)の名のもと全国の大名にかけた上洛の大号令を無視した越前(現在の福井県)の朝倉義景を「幕府への反逆」とみなし、討伐軍を送ると信長(岡田准一さん)らが言っていましたね。また、謁見に来た家康に対し、泥酔した様子の義昭が呂律のまわらぬ口調で、今後、諍いが生じた際は幕府に申し立てをし、勝手に大名同士が戦をしてはならないと命じていました。

 これらは、永禄13年(1570年)正月、信長が義昭の名前で発行させた、いわゆる21箇条の「掟書(おきてがき)」の内容を踏まえた展開だと思われます。義昭=信長が諸大名の統制に乗り出し、「信長には将軍の承諾なしに、独断で反逆者を成敗する権利がある」とも通告しています。同時に、義昭=信長に従う意思があるなら、「上洛して天皇、将軍に拝謁せよ」という命令も出していました。実際には使者を送るだけでも許されたようですが、信長は義景が完全無視を決め込むとにらみ、浅井長政と共に朝倉家と戦う想定で動いていたことでしょう。

 ドラマでは、将軍への拝謁が済んだ家康は早々に岡崎に戻るつもりだったものの、朝倉攻めの計画を信長や秀吉(ムロツヨシさん)から聞かされ驚愕し、自分は手勢が500ほどしかいないので一度帰って準備を整えたいと主張するも、幕府方の軍勢はすでに4万を超えるのでその必要はないと秀吉に押し切られる形で、朝倉攻めに半ば強引に参加させられるという描かれ方でした。

 公家・山科言継(やましな・ときつぐ)の日記『言継卿記』によると、永禄13年4月25日、信長、家康、そして朝廷から派遣された兵もふくむ連合軍は総計3万だったそうで、そのまま越前に入り、次々と朝倉家の城を落としていきます。そして彼らの本拠地である一乗谷(現在の福井市)に攻め入る前に、金ヶ崎城を落とすべく猛攻を加えたそうです。『言継卿記』によると「千余人」もの兵の犠牲を出した末にようやく金ケ崎城は落ちたとのことですが、同時代の信頼できる別の史料には犠牲者について「二千人」との記述もあります(『多聞院日記』)。