いわゆる自己啓発本でそれぞれ共通しているのは、「願えば叶う」「頑張れば報われる」「自分らしく生きていく」「時間を味方に付けて効率化を図る」などです。もし自分の中に「将来ゼッタイにやりたいこと」があるならば、上記の方法はとても効果があるでしょう。なぜなら目の前に置かれた道の先にはハッキリとしたゴール、つまり目標が明らかに存在しているからです。目的地から逆算して、いつ、何を、どのような手順で実施すればそこに近づけるかを考えるのは楽しいことですし、ワクワクしますよね。歩み続けるほど着実にゴールは近くに迫ってくるのです。
でも、そうした「頑張り」というのも表裏一体だと最近の私は思います。私の場合、昔から国際会議同時通訳者を目指していたわけではありません。10代の頃はツアーコンダクターに、20代前半はジャーナリストに憧れていました。大学時代、通常の語学クラスが今一つだったため、たまたま履修したのが「通訳」の授業。そこで初めて通訳の世界に出会い、ダブルスクールで外部の学校にも通い始めました。しかし、その時の位置づけはあくまでも「より高度な英語に触れるため」。本格的に通訳の世界に入ったのは留学後のこと。修士号を終えて帰国するも仕事にありつけず、恩師から通訳業務を紹介されたのがきっかけでした。
けれども、この仕事は私にとって生きがいとなりました。何しろお金を頂きながら未知の分野について勉強するチャンスを得られるのです。事前準備はハードですが、努力すればするほど、それが当日の訳出に反映されます。他者による評価ではなく、通訳をしているその瞬間に、自分の頑張り度合いが計量できるのです。セルフ人事考課ができる、そんな仕事と言えますよね。もっとも、裏を返せば、準備不足や難易度が高い案件の場合、他者に指摘されなくても自分の実力不備を目の当たりに付きつけられるのもこの仕事です(笑)。
さて、今回のタイトルは「頑張り過ぎの弊害」。みなさんは普段どれぐらい公私面で頑張っておられますか?私の場合、小さい頃から集中して取り組むのが好きなタイプでした。たとえば定期試験でも「頑張る→テスト結果で好成績をおさめる→結果に喜ぶ→努力は裏切らないと再認識する→成功体験となる→同じ手を次の状況でも用いる」というサイクルが出来上がったのです。この循環を得たお陰で、通訳準備にも役立ちました。
ただ、このメソッドに味を占めてしまったからでしょう。色々な面で効率化や正解を求めることがデフォルトになってしまいました。たとえば日中ちょっと疲れたなと思っても、「横になって寝てしまうと夜に眠れなくなり、睡眠サイクルが乱れる」という健康関連記事を思い出してしまう。そして体がくたくたでもベッドには入らず、ソファにも寝転がらず、机に突っ伏して10分寝るのが正解などと決めてしまうのですね。よって、うたた寝したり寝落ちしたりすることに、妙な罪悪感を抱いてしまいます。
他にも、「お金は無駄遣いせずコツコツと貯めることが正しい」との考えに縛られ、店頭で「あ、欲しいな」と思っても、心の中でブレーキを踏む自分がいます。頭の中では「ほんとに買うの?もったいないでしょ?家にある〇×▽で代用できるよ」「買ってもすぐ飽きちゃうよ」「モノを増やしてどうするの?」などという声がこだましてしまいます。棚の前でその商品にトキメキを覚えても、脳内ボイスが大音量でそのワクワク感をかき消してしまうのです。世間ではこれを「お金に対するメンタルブロック」と呼びます。
なぜこのようになるのでしょうか?実はコレ、幼少期から大人になるまでの間に刷り込まれた考えが大きく作用しているからなのですね。育つ過程において見聞してきた価値観、とりわけ親の言動が無意識の形で子どもの潜在意識に形成されるためと言われています。当の親は意図的にそうした価値観を埋め込もうとしたとは限りません。しかし、親が知らず知らずに口にしていた内容は子どもの中で巨大な行動基準となるのです。
私の場合、「頑張りすぎ」の部分については、親から認められたい一心で行動していたと最近気づきました。お金のメンタルブロックも、やはり親がお金に対してそのような価値観を抱いていたと再認識しています。もちろん、そうした価値基準に私自身が違和感を抱いていないのなら、このままそれで生きていくのもありです。しかし、この行動規範が自分を縛り付けてしまい、息苦しいと思うのなら、それは「弊害」というもの。今こそ軌道修正に踏み出す時です。
頑張り過ぎの弊害でぐったりヘロヘロになりやすくなった昨今の私は、目下、試行錯誤でそれを変えようとしています。なかなかチャレンジングです。通訳準備同様、エンドレスです(笑)。
(2023年3月28日)