桜の開花が待ち遠しくなりました。マスク着用も任意になり、久しぶりに解放された気分を満喫できそうです。指導先の大学では4月にどのような出会いがあるだろうとワクワクしています。春というのは人の気持ちを前向きにさせてくれますよね。

とは言え、人間ですのでいつもいつもハッピーというわけにはいきません。世界を見渡せば心が痛む状況が続きます。私のように日ごろからニュースの通訳をしていると、共感疲労に陥りがち。世の中には「自分のチカラで変えられること」もあれば、「自力ではどうにもならないこと」もあるのです。

では、そのような時にどうするか?実は古典を紐解いてみると、古の偉人たちもそれに苦悩していたことがわかります。私が愛読するマルクス・アウレーリウス著「自省録」もそのような文言でいっぱいです。ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスも、他者の目を気にし、世の行く末を憂い、悩み苦しむ様子を綴っていました。この名著を日本語に訳した精神科医の神谷美恵子先生も、その生涯において大いに苦悩した方でした。ちなみに「自省録」は最近、「超訳版」が出版され、読みやすくなっています。

これまでの自分自身の歩みを振り返ってみると、「頑張ることが楽しい」という軸を元に生きてきたように思います。通訳という、毎回受験勉強のようなインテンシブさを求められる仕事であるため、事前準備の頑張りが当日のすべてに反映されるからこそ、やりがいとなっているのです。

ただし、これが通用するのは「自分の心身が限りなく健やかな状況時」に限ります。日頃から体調管理を大事にして、常に心も体も万全であれば、「毎回全力でフル展開」も可能でしょう。でも、人間ですので生きていれば様々なイレギュラーが生じます。自分で避けたり対峙したりできることもあれば、どうにもならないこともあるのです。それに加えて、季節の変わり目や世情などで体が付いていけなくなるというケースも。

そのような際、今まで自力で切り抜けてきた人ほど、それが成功体験となっているため、「今回だって自分で何とかできる」と思いがちです。初期段階で白旗掲げて降参することをなかなか自分に許してあげられないのです。それどころか、観念や諦念は自分が自分に敗北するように思えてしまうのですね。

私自身、このサイクルで頻繁にがんじがらめになってきました。人生の折り返し地点を過ぎた今でも、この厄介な「怪物」に悩まされます。ホント、ヤレヤレです(笑)。

では、どうするか?私の場合、これまでは「何かをあきらめること」を良しとせず、「自分の頑張りで克服する・解決する」を良しとしてきました。突破口の可能性がたとえ0.00001%と限りなく低くても、そこに賭けていたのです。でも、ようやく最近ふんぎりがつきました。それは「あきらめるべき物事に対してはあきらめよう」というものでした。

かつての価値観からすれば、これは「自分自身への大いなる敗北」です。何しろ「頑張れば何とかなった」をデフォルトに生きてきたのですから、うまく克服できないということは自分の努力不足・不甲斐なさゆえというマインドが染みついています。しかし、どうにもならないものはどうにもならないのですよね。この当たり前すぎる「当たり前」を受け入れようとしなかった自分も、なんとまあ盲目的で頑固だったんだろう、と最近は笑い飛ばせるようになりました。

新年度を前に、期待がある反面、何となくモヤモヤdaysをお過ごしの方もおられるでしょう。「あきらめという潔さは、実は穏やかに生きる上での次への勝利」と私は自ら言い聞かせています。

(2023年3月14日)