――それで福岡から東京に上京して?

 もともと朝鮮学校にずっと小学校から行っていて、それがそのまま大学まであるんですよ。高校まで九州の朝鮮学校に行って、大学進学で朝鮮大学校の音楽科に音楽の先生になるために進学して、それで東京に来て。教育実習に行ったりもしたんですけど、音の感覚的なところを教授たちが面白がって、大学院に残るよう言われて2年間大学院に残って。でその時に舞台音楽とか学校の運動会でこういう音楽欲しいんだけどとか、舞踊踊るのにこういう曲が欲しいんだけどって全国からの依頼をお金もらって作って渡すみたいなことを大学院中にずっとバイトでやってて。そういうので名前が広がっていって、大学院卒業と同時に、金剛山歌劇団っていう、在日の朝鮮の伝統楽器と伝統音楽と舞踊とかをやる大きな団体があって、そこに作曲家として入って。それを2年やってましたね。

 でも私は日本語がすごい好きで。そういう伝統音楽とかって全部韓国語だし、どうしても在日社会の中では韓国語じゃないと全然求められなかったんで。そういう韓国語じゃないとダメっていうのが余計に日本語への欲求を高めたんですよ。どっちかというと声楽的な発声とか、民謡が多かったんですけど、ポップスで日本語で普通の恋愛の歌が歌いたいと思って。それでちょうどそういうときに日本の音楽業界の人に、手伝おうか?って言われて、思い切って日本の音楽業界に飛び込んだっていう感じです。ざっくり言うと。

――そういう伝統音楽をやってたところから、JAMNUTS(さかいゆう、mabanua、Shingo Suzuki、渥美幸裕、SWING-O、Hanah Springなど錚々たる面子が集まった音楽集団)の界隈に行くわけですが、もともとR&Bとかもお好きだったんですか?

 R&Bとか大好きで。当時K-⁠POPはそんなに流行ってなかったんですけど、1カ月に1回、クラブエイジアとかで韓国音楽が好きなオタクが集まるイベント「韓晩」ってのがあって、大学のとき、こっそり行って、そこで韓国語で歌ったりしてて。Drunken Tigerとか、そういうラッパーの人たちがゲストで来たり、そういう時代だったんです。そのときにクラブミュージックにも触れて、そのへんからクラブミュージックは好きだな、やりたいなって思ってましたね。

 JAMNUTSに出会ったのは、日本の音楽業界に飛び込んで2年ぐらい手探りでやっているときに、当時の彼が、すごい面白い場所でセッションやってるから行かない?って誘ってくれて行ったのがshibuya PLUGで。そこで、対馬さん(origami PRODUCTIONSの対馬芳昭氏)たちとか、MARUとかHanah Springとか、さかいゆうくんとか、みんな出入りしてるジャムセッションに夜な夜な行くようになって。当時私は所沢に住んでたんで、所沢から深夜に渋谷に行って、早朝朝の始発を待って帰るみたいな暮らし。韻シストのギターのTAKUちゃんも新幹線で大阪から渋谷に通ってたらしいです。それでコーラスサポートで手伝うようになった流れから竹本健一と仲良くなって、どんどんミュージシャン仲間が広がって、ドラソ(DRAMATIC SOUL:竹本健一、MARU a.k.a Fire Lily、Hiro-a-keyと共同で立ち上げたR&Bイベントであり、この名義での楽曲リリースもあった)っていう。