その後も、汗だくのなか熱々のグラタンや餅を食べたり、同期芸人のギャグを真似したり、子ども用カートでの川島との対決に接戦で負けゴールテープに頭から突っ込んだりなど。テレビタレントとしての春日の底力を存分に感じる約40分間のショーだった。
にしても、春日を見て笑うときのこの多幸感はなんだろう。やはりそれは春日が「当て書きの究極体」だからだと思う。それは作られたキャラクターである。春日が作りものであることを私たちは知っている。だが同時に、それは彼を10代のころから見てきた若林正恭の当て書きである。彼のもともとの人格のようなものが、そこに幾分か反映されていることも私たちは感じている。
作られたキャラと素の間にある春日。その宙吊り状態をずっと安定してキープし続けてきた(ように見える)春日。そんな春日を前にすると、キャラの裏側、本来の素を暴きたいという私たちの欲望、逆にいえば裏切られたくないという疑心暗鬼はきれいさっぱりキャンセルされる。だからこそ、安心して笑っちゃうのだろう。
明日も太陽は昇る。だからこそ、私たちは安心して眠りにつくことができる。明日も春日は春日である。だからこそ、私たちは安心して笑うことができる。