その結果、600万人ものユダヤ人、さらに障害者や同性愛者たち、ロマたちも「特別処理」されることになった。そして会議から3年後には、「千年王国」と謳われたドイツ第三帝国も崩壊する。

 会議参加者たちのその後だが、議長を務めたハイドリヒは占領下のチェコで爆破テロに遭い、会議の4カ月後に亡くなっている。ハイドリヒ亡き後、ホロコーストを実行に移したアイヒマンは戦後は南米に逃れていたが、モサド(イスラエル諜報特務庁)に拘束され、1962年に処刑された。それぞれ、『ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺計画』(16)や『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』(15)などの劇映画で詳しく描かれている。

 もうひとり、会議で抵抗を試みた官僚のシュトゥッカートだが、彼は1953年に交通事故で亡くなっている。「ニュルンベルク法」の起草者だったことからモサドに狙われ、事故に見せかけて暗殺されたと囁かれている。

 米国に亡命していたドイツ出身の哲学者ハンナ ・アーレントは、裁判で無罪を主張するアイヒマンのことを「悪の凡庸さ」と評した。上司に気に入られたい、波風は立てたくない、会議を滞りなく終わらせたい……。そんな平凡な小市民的な考えが、人類史上最も恐ろしい会議を成立させてしまった。