ウエストランド井口が体現した“出口のなさ”
ただ、今回のウエストランドのネタで表現された“悪口”は、その内容そのものに何か新鮮な批評性があったわけではない。「恋愛映画にはパターンがない、全部一緒」、「路上ミュージシャンは街の迷惑者」、「嘘をついて売れようとしているからアイドルは引け目の塊」と書き出してみてもわかるように、それ自体は特におもしろみもない、世間一般においても既に陳腐化したような偏見でしかない。
「M-1もウザい、アナザーストーリーがウザい」といった“悪口”も、本当に「M-1」そのものを毀損・破壊するような批評性を発揮していたわけでは当然ない(このネタで優勝しているのだ!)。ウエストランドももちろん、そんなことを意図していたわけではないだろう。そして言うまでもなく、このネタが「M-1」に何か変化や再強化をもたらすこともないはずだ。
観客は、その“悪口”の作用よりむしろ、井口が口角泡を飛ばすようにしつこく同じ言葉を繰り返したり、「警察に捕まり始めている」というフレーズを“天丼”することでの快感によって笑わされていたはずだ。河本が悠然と佇む隣で、井口が神経質で奇矯な振る舞いとともにこれらの“悪口”を繰り返していると、そのシチュエーションの珍妙さ・矮小さそのものが、観客の笑いを引き起こすのである。ビートきよしや田中裕二が、相方に対してわかりやすく動揺し翻弄される役割を演じていたことを思い返すと、ツービートや爆笑問題との構図の違いを捉えやすい。
つまりウエストランドの今回のネタは、批評的な“悪口”で世間における水面下の意識を刺激し、共同性にリフレッシュを引き起こしたわけでは、ない。「M-1」という安全なゲームの内部で、ありふれた“悪口”を繰り返すことしかできない(ように見せるための高い技術を駆使する)井口のいかんともしがたい“出口のなさ”こそが、強い笑いを生んだのだと思う。
かつてのビートたけしが“ホンネ”を刺激することで共同体をリフレッシュする古典的な道化だったとすれば、井口はもはやこの共同体はリフレッシュすることも困難な閉塞のなかにあることを、その身をもって私たちに知らしめる、現代的な道化であると言うことはできないだろうか。政治的な意味でも経済的な意味でも、多くの人が未来に希望を感じることのできない閉塞のなかにあるこの現代社会では、こういう道化の存在が奇妙に切実なリアリティを持つように感じる。