風邪という言葉は自分たちにとって厄介な言葉の一つなのだ。本当に何気なく「動物に風邪はあるのですか?」などと聞かれる。
しかし、風邪という概念は往々にして人によって異なるものだ。何種類かのいわゆる感冒ウイルスにいよる上部気管炎を一般的には風邪と呼んでいる。つまりウイルス感染症のはずなのなだが、「ストレスによってかかる」とか、「疲れがたまるとひいてしまう」とか、感染症であるという本質を飛び越して、疫学論的なことにのみ意識が向いている方が多い。
確かに、風邪の語源をひも解けば、風=環境の変化、邪=体のひずみ、ということで、気温や気候の急激な変化で体に生じるひずみがすなわち風邪なのだ。ということになる。それはそれでよし。科学や医学の未発達な時代に生まれた言葉なのだから。しかし、科学の発達した現在においても、感染症であるという認識が非常に希薄なことは間違いない。とくに感冒ウイルスの中でも重篤な症状を引き起こしうるインフルエンザに関心を払ってもらおうと、「インフルエンザは風邪ではありません。感染症です。」と躍起に広報したりするのは、感染症に対する啓発のための苦肉の策ともいえる。
次のカルテはと手に取ると、日本猫のミースケくん、9歳。風邪をひいたみたい、とメモがはさんである。早速、診察室に入ってもらった。
「風邪のような症状があるのですか?」と問うと、
「はい、クシャミ、鼻水、涙目で・・・」
とお母さん。
「食事は摂っていますか?」
「それはちゃんと食べてくれます。」
「そうですか、それは良いことですね。」
「ワクチンは受けておられますか?」
「いいえ。子猫のときから家の周りに住み着いて、何年か前からようやく家の中に入って食事をしてくれるようになったんです。」
「半分ノラちゃんみたいなもので、ほったらかしなんです。」
「そうでしたか。じゃ、去勢もしてないですよね。」
「この地区は猫エイズも珍しくはなくて、外へ自由に出て行ける飼い方は避けたほうが良いのですが。」
そんな話をしながら身体検査をし聴診をした。
ミースケくんはなかなか貫禄のある茶トラの大きな猫だが、ご近所でかわいがられているのだろう、まったく診察台の上でも物怖じせず、ゆったりと寝そべってゴロゴロのどを鳴らしている。
ゴロゴロのせいで聴診はさっぱり聞き取れなかったが、一般状態が良いことだけは確かだ。この人懐っこさで、お母さんも家に上げてくれたのだろうと納得した。
確かにミースケくんは鼻をグズグズ鳴らし、涙目で、聴診の間にも一度クシャっとクシャミをした。熱はなかった。
「先生、猫ってよく風邪をひくのですか?」とお母さん。
「風邪というよりはインフルエンザのように感染症と考えていただいたほうが賢明ですね。」と、感染症に力を入れてさりげなく答える。
実際、猫で風邪のような症状を引き起こす病原体はヘルペスとカリシとクラミジアがほとんどで他のものは考慮に入れなくても良いくらい少ない。ならば、猫ウイルス性鼻気管炎、猫カリシウイルス感染症、クラミジア感染症と呼べば、風邪という言葉は不要なくらいなのだ。この3つを総称して猫風邪ということにでもしようか。そんな話をしながら、一般的な血液検査とFeLV/FlVのいずれかでも(+)なら、ミースケくんの風邪症状はうんと長引き、ひどいときには肺炎まで併発していまうことを考慮しなければならない。
幸運なことにミースケくんは大きな血液学的異常もなく、エイズにも白血病ウイルスにも感染していなかった。
「良かったですね。一般状態もそれなりに良いですから、細菌の二次感染を防ぐための抗生剤の投与とインターフェロンの点眼で様子を見ていきましょう。」
「猫はにおいが分からないものは怪しんで食べようとしません。したがって鼻が詰まってしまってにおいを嗅げなくなると、ものを口にしなくなります。ですから、鼻の周りは清潔にして、点眼を頻繁に行い、少しでも鼻粘膜のコンディションが悪くならないようにしてあげてください。もし、食べられなくなったら、点滴などの支持療法も必要になります。」
「ところで、少し気になったのですが、先ほど、よく風邪をひくのかとお尋ねになられましたが、ミースケくんの猫風邪は初めてではないのですか?」
「はい、2年ほど前にもひどい風邪で。そのときはまだよく懐いてくれていなかったので病院に連れて行くこともできず、ずいぶん長くかかっていたようですが、自分の力で治ってくれてたんです。」