ドクサでしかないトランスジェンダー批判

 ローリングが、トランスジェンダー女性を女性として認めない姿勢を貫くのは、彼女自身が男性から受けた暴力被害のトラウマが根深く影響しているという。もし、女性用トイレなどの公共スペースにトランスジェンダー女性を装った男性が侵入して性暴力を行なったらと懸念するのは、分からなくもない。これはアメリカでも論争になっているものの、ジェンダーと犯罪を安直に結びつけるローリングの思考には無理があるだろう。

 2018年にスカーレット・ヨハンソンがトランスジェンダー女性役から降板したことがきっかけで、トランスジェンダーではない、シスジェンダー(心身の性別が同一である人)俳優が、トランスジェンダー役を演じることが、ハリウッドのキャスティングで問題になった。そうした動向を受け、「ファンタスティック・ビースト」シリーズで、主人公の魔法生物学者ニュート・スキャマンダーを演じるエディ・レッドメインは、『リリーのすべて』(2015年)でトランスジェンダー女性の画家を演じたことを深く後悔していると発言した。

 とは言え、ローリングにとって、「生物学的な性別の違い」はどうしても譲れないらしい。トランスジェンダーに関する差別的発言で勤務先を解雇された著述家のマヤ・フォーステーターを擁護する姿勢を取り、2019年に炎上したことも記憶に新しい。ローリングは、「差別」ではなく、「区別」だと説明するのだけれど、いずれにしろ彼女のドクサ(臆見)でしかないトランスジェンダー批判は、許されるべきではないと筆者も強く思う。

ねじれたポリコレ論点

 他方、ゲイに関するローリングの発言はどうだろう?

 ここで、筆者が『ダンブルドアの秘密』に寄せたコラム「ダンブルドアのゲイ設定が公式の事実に。『ファンタビ』最新作が描いた“愛の物語”」に対する日本のネット上での反応を参考にしてみたい。批判的なコメントが多かったのだけれど、その大半が「今さらダンブルドアをゲイとして描いて、ダイバーシティ感を訴求して、ポリコレ配慮が見え見えだ」とする主旨のものだった。

 しかし、ローリングはゲイを差別したことはなかったし、そもそもホモフォビア(同性愛嫌悪)ではない。トランスジェンダー女性に対する問題発言が、ここにきてホモフォビアすら含んでいるように認識され、その延長でローリングは差別主義だという認識が行き渡っている。事、ゲイ描写に関しては、完全に一人歩き状態というか、論点がねじれていると思うのだけれど。

 何でもかんでもポリコレ的にアウトだとする論法は、正直、どうかと思う。これは筆者の私見だが、そもそも、論争好きなだけで、当事者ではない人たちが、火事場に押し掛けて騒ぎ立てているだけにみえてしまうところがある。いつから、ポリコレ、ポリコレと、こんなにもうるさくなったのだろう?