3年間、300万円近くを使って断念
夫婦の関係性にも変化があった。
「くだらないことで心から笑い合うことがなくなりました。以前は、僕がワイドショーのコメンテーターのモノマネをして彼女を笑わせたり、撮りあった互いの顔写真をアプリで変顔に加工して腹がよじれるほど爆笑したりしていましたが、そういうことが一切なくなったんです。
毎年、咲の誕生日は、彼女が行ってみたい高級店を僕が予約することになっていたんですが、不妊治療2年目にどこに行きたいか聞いたら、『今年は別にいいかな。それでなくてもお金かかるし』と、テレビから視線を外さずに言われて……。何も言い返せませんでした」
やがて不妊治療をスタートして3年が経過。累計費用は300万円近くにまで達していた。石岡さん46歳、咲さん39歳。“その日”はやってくる。
「何度目かの胚移植に失敗して、咲に生理が来てしまった日のことです。“撃沈”にはもう慣れっこになっていましたが、夕食の後で僕が席を立とうとすると、咲が青白い顔で『もう、やめようか? やめていい?』と言いました。僕は『そうしよう。今までよくがんばったね、ありがとう』とねぎらいましたが、彼女は放心状態。僕はそれ以上言葉をかけられず、そっとしておきました」
視界に入るものすべてが地獄
数週間は何事もない日が続いた。しかし、ある日のこと。
「寝る時間になっても咲がベッドに来ないんです。おかしいと思って洗面所に行くと、彼女が小さく嗚咽していました。『おおぅ、おおぅ……』って。蛇口から水を出しっぱなしにしながら」
石岡さんが声をかけると、咲さんは洗面所の冷たい床にへたりこみ、苦しい胸の内をぶちまけた。
「視界に入るものすべてが地獄だと僕に言いました。日々報じられる芸能人の妊娠や出産ニュース。街ではしゃぎまわっている子供たち。何を見ても“何か”を思い出す、耐えられない、気が狂いそうだと……」
石岡さんが今までに見たこともないほど咲さんは取り乱し、泣きじゃくっていた。
「こうも言いました。世の中にいるすべての人間は、ひとり残らず誰かが産み落とした。なのに自分は、この人間社会の当たり前の営みに参加できない。人類の大きなサークルに入ることができない。こんな絶望ってある!? ねえ? そう詰め寄られました」
咲さんがその夜に爆発した理由は、後日判明する。1年ほど前に結婚した咲さんの従姉妹(当時33歳)に第一子が誕生したと、その日の日中に咲さんの母親から連絡があったのだ。母親からの「出産祝い、どうする?」が引き金になったようだった。
「自分がこんなにも苦労して、莫大なお金を使ったあげく、結局子供を授かれなかったのに、5つ歳下の従姉妹はいとも簡単に授かった。そのうえニコニコして出産祝いまで包まなければならないなんて……。そりゃあ、やりきれないでしょうよ」